アルカーイダ
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アルカーイダの考え方では実行の分散化は認めるが、意思決定は集中化するように求めている[14]。しかし対テロ戦争後、アルカーイダの指導部は孤立した。その結果、アルカーイダの指導権は分散化され、組織は地域化されて幾つかのアルカーイダのグループに分かれた[15][16]

多くのテロ専門家は世界的なジハード主義運動がアルカーイダの指導によって推進されているとは考えていない。しかし、ビン・ラーディンは死ぬ前にイスラーム過激派に対してかなりの思想的影響を及ぼしていた。専門家らはアルカーイダはいくつかの異なる地域運動に細分化しており、これらのグループは互いにほとんど関係がないと述べている[17]

この見解は2001年10月のインタビューでにビン・ラーディン自身がタイシール・アッルーニーに対して行った説明とも類似している。この問題はある特定の個人に関するものではありませんし、アルカーイダという組織に関するものでもありません。私たちは預言者ムハンマドをリーダーとする1つのイスラーム国家の子供たちであり、私たちの主はただ1人、預言者もただ1人、キブラもただ1つ、国家もただ1つなのです……真の信者たちはみな兄弟です。ですから、状況は西洋人が思い描いているような、(アルカーイダなど)特定の名前を持つ組織が存在するということではないのです。その特定の名称(アルカーイダ)はとても古いもので、意図せずして生まれたものです。兄弟であるアブ・ウバイダ・アル=バンシリ(英語版)は、悪質かつ傲慢で残忍で恐ろしいソビエト帝国と戦うため若者たちを訓練するための軍事基地を作りました。そしてその場所は訓練「基地」(アルカーイダ)と呼ばれるようになりました。そのようにしてこの名称は生まれ、成立したのです。私たちは(イスラーム)国家から独立した存在ではありません。私たちは1つの国家の子供たちであり、切り離せない一部なのです。そして極東から、フィリピン、インドネシア、マレーシア、インド、パキスタン、モーリタニアにまで広がる示威運動とも(切り離すことができない)……したがって、私たちが論じているのはこの国家における道徳なのです[18]
テロリスト・ネットワーク

アルカーイダと提携している団体:

アラビア半島のアルカーイダ (AQAP)

インド亜大陸のアルカーイダ (AQIS)

イスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構 (AQIM)

アル・シャバブ (ソマリア)

Jama'at Nasr al-Islam wal Muslimin (JNIM)

ボスニア・ヘルツェゴビナのアルカーイダ[19]

コーカサスとロシアのアルカーイダ

ガザのアルカーイダ

クルディスタンのアルカーイダ[20]

レバノンのアルカーイダ

アブー・ハフス・アル=マスリー殉教旅団

アルカーイダと無関係な団体:

タハリール・アル=シャーム

カフカース首長国 (factions)

Fatah al-Islam[21]

イスラム聖戦連合[22]

ウズベキスタン・イスラム運動

ジャイシュ=エ=ムハンマド[23]

ジェマ・イスラミア [要出典]

ラシュカレトイバ[24]

Moroccan Islamic Combatant Group[25]

以前アルカーイダと提携していた団体:

アブ・サヤフ (2014年にイスラム国に鞍替え[26]

Al-Mourabitoun (2017年にJNIMと合流[27])

イラクの聖戦アル=カーイダ組織 (のちのイスラム国)

アンサール (ナイジェリア) (2015年に活動停止[28])

アンサール・アル・イスラム (2014年にイスラム国と合流)

アンサール・アッ=ディーン (2017年にJNIMに合流[27])

イエメン・イスラム聖戦 (のちのアラビア半島のアルカーイダ)

Jund al-Aqsa (消滅)

Movement for Oneness and Jihad in West Africa (2013年にAl-Mulathameenと合流してAl-Mourabitoun)

Rajah Sulaiman movement [要出典] (消滅)

指導部ウサーマ・ビン=ラーディン(左)とアイマン・ザワーヒリー(右)

ウサーマ・ビン=ラーディンはアル=カーイダの精神的指導者であり、財力を用いて初期の反米闘争の組織を起ち上げた。アル=カーイダのナンバー2とされていたアイマン・ザワーヒリーはイスラーム神学者。
1986年、二人はサウジアラビアジッダで初めて会ったとされる[29]。組織作りや資金集め、組織の代表として声明などを出す役割はビン=ラーディンが担い、テロに関する宗教的な理論面や作戦面は、学識のあるザワーヒリーが担っていたとされる[30]

ビン=ラーディンは1988年に組織を立ち上げてから2011年5月1日に殺害されるまで、アルカーイダの司令官(アミール)を務めていた[31]アティーヤ・アブドゥッラフマーンは2011年8月22日に死亡するまで副司令官を務めていたと言われている[32]。ビン=ラーディンは20?30人のベテランメンバーで構成されたシューラの助言を得ていた[33]

アイマン・ザワーヒリーはアルカーイダの副司令官を務めてきたが、ビン=ラディンの死後、暫定指揮官のサイフ・アル=アデルに代わり司令官(アミール)に就任した[34]。2012年6月5日、パキスタンの情報部は副司令官のアブ・ヤヒヤ・アル・リービーを殺害したと発表し[35]、2013年にナシル・アル=ウハイシが副司令官に就任した。ナシルはアラビア半島のアルカーイダ(AQAP)の指導者だったが、2015年6月にアメリカ合衆国の空爆によりイエメンで殺害された[36]。その後アブ・ハイル・アル・マスリが司令官に就任したが、2017年2月にアメリカ合衆国の空爆によりシリアで殺害された[37]。2019年7月、ビン=ラディンの息子のハムザ・ビン・ラーディンが死亡していることが明らかになった[38]。この頃、ザワーヒリーの体調が悪いという説が広まった[39]。2022年7月31日にはアフガニスタンの首都カーブルの隠れ家に潜んでいたザワーヒリーがアメリカ合衆国の空爆により殺害された[40]
指揮命令系統

アルカーイダは軍事作戦は行っておらず、いくつかの戦闘集団が存在し、攻撃を準備する段階で指導部と相談を行う[41]

2005年のロンドン同時爆破事件についてアルカーイダが関連している可能性について尋ねられたロンドン警視総監のイアン・ブライアー(Ian Blair)は「アルカーイダは組織ではない。アルカーイダは働き方であり...アプローチの品質証明であり...アルカーイダは訓練を提供したり専門知識を提供する能力を明らかに持っている。ここで起きたことはそういう事だと思う」と述べた[42]。2005年8月13日、インデペンデント紙は7月7日の爆弾犯はアルカーイダの首謀者からは独立して行動したと報道した[43]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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