アルカーイダ
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カフカース首長国 (factions)

Fatah al-Islam[21]

イスラム聖戦連合[22]

ウズベキスタン・イスラム運動

ジャイシュ=エ=ムハンマド[23]

ジェマ・イスラミア [要出典]

ラシュカレトイバ[24]

Moroccan Islamic Combatant Group[25]

以前アルカーイダと提携していた団体:

アブ・サヤフ (2014年にイスラム国に鞍替え[26]

Al-Mourabitoun (2017年にJNIMと合流[27])

イラクの聖戦アル=カーイダ組織 (のちのイスラム国)

アンサール (ナイジェリア) (2015年に活動停止[28])

アンサール・アル・イスラム (2014年にイスラム国と合流)

アンサール・アッ=ディーン (2017年にJNIMに合流[27])

イエメン・イスラム聖戦 (のちのアラビア半島のアルカーイダ)

Jund al-Aqsa (消滅)

Movement for Oneness and Jihad in West Africa (2013年にAl-Mulathameenと合流してAl-Mourabitoun)

Rajah Sulaiman movement [要出典] (消滅)

指導部ウサーマ・ビン=ラーディン(左)とアイマン・ザワーヒリー(右)

ウサーマ・ビン=ラーディンはアル=カーイダの精神的指導者であり、財力を用いて初期の反米闘争の組織を起ち上げた。アル=カーイダのナンバー2とされていたアイマン・ザワーヒリーはイスラーム神学者。
1986年、二人はサウジアラビアジッダで初めて会ったとされる[29]。組織作りや資金集め、組織の代表として声明などを出す役割はビン=ラーディンが担い、テロに関する宗教的な理論面や作戦面は、学識のあるザワーヒリーが担っていたとされる[30]

ビン=ラーディンは1988年に組織を立ち上げてから2011年5月1日に殺害されるまで、アルカーイダの司令官(アミール)を務めていた[31]アティーヤ・アブドゥッラフマーンは2011年8月22日に死亡するまで副司令官を務めていたと言われている[32]。ビン=ラーディンは20?30人のベテランメンバーで構成されたシューラの助言を得ていた[33]

アイマン・ザワーヒリーはアルカーイダの副司令官を務めてきたが、ビン=ラディンの死後、暫定指揮官のサイフ・アル=アデルに代わり司令官(アミール)に就任した[34]。2012年6月5日、パキスタンの情報部は副司令官のアブ・ヤヒヤ・アル・リービーを殺害したと発表し[35]、2013年にナシル・アル=ウハイシが副司令官に就任した。ナシルはアラビア半島のアルカーイダ(AQAP)の指導者だったが、2015年6月にアメリカ合衆国の空爆によりイエメンで殺害された[36]。その後アブ・ハイル・アル・マスリが司令官に就任したが、2017年2月にアメリカ合衆国の空爆によりシリアで殺害された[37]。2019年7月、ビン=ラディンの息子のハムザ・ビン・ラーディンが死亡していることが明らかになった[38]。この頃、ザワーヒリーの体調が悪いという説が広まった[39]。2022年7月31日にはアフガニスタンの首都カーブルの隠れ家に潜んでいたザワーヒリーがアメリカ合衆国の空爆により殺害された[40]
指揮命令系統

アルカーイダは軍事作戦は行っておらず、いくつかの戦闘集団が存在し、攻撃を準備する段階で指導部と相談を行う[41]

2005年のロンドン同時爆破事件についてアルカーイダが関連している可能性について尋ねられたロンドン警視総監のイアン・ブライアー(Ian Blair)は「アルカーイダは組織ではない。アルカーイダは働き方であり...アプローチの品質証明であり...アルカーイダは訓練を提供したり専門知識を提供する能力を明らかに持っている。ここで起きたことはそういう事だと思う」と述べた[42]。2005年8月13日、インデペンデント紙は7月7日の爆弾犯はアルカーイダの首謀者からは独立して行動したと報道した[43]

911事件の準備段階において4年間オサマ・ビン・ラディンのボディーガードだったナーサル・アル・バフリは当時の集団がどのように機能していたか、アルカーイダの組織的な管理の仕組みや膨大な武器について記憶をもとに詳細に書き記している[44] 。一方、 著作家のAdam Curtisは「アルカーイダ」は2001年に行われたアメリカ大使館爆破事件に関する裁判の過程で作られた用語だと主張している。現実はビン・ラディンとアイマン・アル・ザワヒリが、新しい戦略に魅了された幻滅したイスラム過激派のゆるい連合の中心になっていたということでした。しかしそれは組織ではありませんでした。自分たちで活動の大半を計画し、ビンラディンに資金と支援を求めた過激派が居るだけでした。ビン・ラディンは彼らの指揮官ではありません。またビン・ラディンは9月11日の攻撃の後までグループの名前に「アルカーイダ」という用語を使ったという証拠はありません。アメリカ人がそのように命名したことにビン・ラディンが気づいたので、ビン・ラディンも使用するようになったのです[45]

2001年の裁判中に、米国司法省はRICO法(組織犯罪)によってビン・ラディンを欠席裁判にかけるために、ビン・ラディンが犯罪組織の指導者であることを示す必要があった。組織名と詳細な組織構造についてはジャマル・アル・ファドル(Jamal al-Fadl)が証言を行った。ジャマル・アル・ファドルはグループの創設メンバーであり、ビンラディンに雇用されていたと述べた[46]。しかしアル・ファドルの証言の信頼性については多くの情報源が疑問を呈した。彼には不誠実な前歴があり、米軍施設攻撃の共謀罪で有罪判決を受けた後に司法取引の一部として述べた証言だったからである[47][48]。 アル・ファドルを弁護した弁護人サム・シュミット(Sam Schmidt)は次のように述べている。アル・ファドルの証言には、私が間違っていると思う部分があります。彼はアメリカ人が団結できるような構図を支持しました。彼はこの組織が何であるかについての統一されたイメージについて多くの証言で具体的な嘘をついたと思います。それはアルカーイダを新たなマフィアか共産主義者にしました。それによって集団として識別できるようになり、ビン・ラディンが行った行為や声明とアルカーイダを関連付けて、誰でも簡単に訴追できるようになりました[45]

アル=カーイダの実態は不明点が多く、現在では、アル=カーイダが一つのまとまった組織なのかどうかで議論が分かれる。CIA元工作員でイスラム主義組織の専門家マーク・セイジマン(Marc Sageman)によると「アル=カーイダとは、軍隊のような明確な階級が存在する指揮命令系統の組織ではなく、人々が自発的に集合する社会運動のようなものであって、明瞭な境界や構成員が存在しない」とする。特に2001年のアメリカ軍によるアフガニスタン侵攻以降についてはビン=ラーディンの指揮によるものではなく、地域ごとに自発的に集まった人々によってアル=カーイダの名の下に勝手にテロが行われていると指摘した[49]

また、軍事力は明確なターゲットに対しては有効であるが、アメリカ軍と同盟国によってそれらが破壊され組織が拡散してしまった現在では、軍事力の行使とは異なる対策、すなわち人々が暴力的なテロ運動に参加することを阻止する必要があると指摘した[49]
工作員


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