アリー・ハーメネイー
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ハーメネイーは、国際舞台でのハータミーの努力を支持した。彼は、ドイツ人企業家の釈放の指示を下し、イスラエルのためのスパイ行為で死刑判決を受けていたユダヤ系イラン人に対する判決を差し戻した。

ハータミー政権において、ハーメネイーは、行政権の政策を支持することで国民中の人気をつなぎとめ、他の権威ある宗教活動家からの圧力をかわすことに力を注いでいる。
2000年 - 2010年代2013年イラン大統領選挙で投票するハーメネイー

2009年6月13日に保守派に属するマフムード・アフマディーネジャードが圧倒的な勝利で大統領に再選されると、敗れた改革派候補で元首相のミール・ホセイン・ムーサヴィー陣営が不正選挙を主張し、選挙のやり直しを求め、支持者らによる大規模なデモ・暴動に発展した。ハーメネイーは2009年6月19日に金曜礼拝で「今、イランは冷静になることが必要だ」と演説し、イラン国民への自制の呼びかけと改革派のデモ終結を要求したが、それでも改革派市民によるデモ・騒乱は収まらなかった。今回の騒乱により、イスラム共和制をとるイランの現体制の権威が傷つくこととなった。

なお、ハーメネイーやイラン政府はこの事件の背後には欧米とは異なる新しい道を歩む現体制を転覆させようと再三イランを国際的、国内的に干渉している外国の影があると主張している。

2010年2月にハーメネイーは演説でこの選挙後の出来事は、一部の人々の誤った推測や無知から発生したとし、「(外国や共和国内部の体制の転覆を目論む)敵は、これらの出来事を利用することで、イラン・イスラム共和国を弱体化させようとしたが、これらの出来事は、体制の弱体化につながらなかったばかりか、これまで以上にイスラム体制が力をつける要因となった」と述べ、また、長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたとも述べている[3]

2010年1月にはイラン情報省海外担当次官が、大統領選挙後のデモの発生に何年も前からイランの政権の転覆を目的としてきたアメリカ合衆国ヨーロッパの財団・機関などが関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し、この侵略的な体制転覆計画はアメリカ、イギリス国家機関等がこれらの団体を使って行わせており、今までにかなり多くの予算が正式に割り当てられていると主張した。また、これらの団体は表面上諜報機関とはわからないように装って活動しているとしている(『Iran紙』2010年1月5日付)。

詳細は「イラン#イランに対するアメリカ合衆国の政策」「アメリカ合衆国とイランの関係#対イラン干渉2009年?2010年」参照。ハーメネイーの西側諸国への主張に関しては「イランの主張」または上記の脚注につけた公式サイトのリンク先を参考。
2020年代

2022年9月に入って腹痛と高熱に見舞われるなど体調を崩して一時は重篤となったが、腸閉塞の手術を受け容態は改善し、その後も医師団による観察が続いていると報じられた[4]
人物

マシュハド市出身。彼の父であるジャヴァド・ハーメネイーはマシュハド在住の大アーヤトッラー(高位ウラマー)で、東アーザルバーイジャーン州ハーメネの出身でアゼルバイジャン人。母は、同じくマシュハドの著名なウラマーであるセイイェド・ハーシェム・ナジャファーバーディーの娘で、ヤズドの家系。

ペルシア語アラビア語アゼルバイジャン語トルコ語ロシア語を話し、英語をも理解する。ペルシア文学と伝統的な民族音楽を趣味とする。原稿の準備なしに長時間演説できる雄弁家である。1981年に爆弾テロにあった後遺症で、右手が不自由である。

弟のハーッジ・ハーメネイーは国会議員であり、改革派に属する。また、ハーメネ出身の改革派の政治家ミール・ホセイン・ムーサヴィーとは従兄弟の関係にある。

妹の息子で、耳鼻咽喉科医師のマフムード・モラドハニは、父親が政教分離を主張して失脚したため留学のための旅券発行を拒否され、中東諸国を経由してフランスに亡命し、イスラム革命体制を批判しているほか、マフムードの妹でイラン国内に留まるファリデはマフサ・アミニの死に端を発する抗議デモで2022年11月に拘束された[5]
出典[脚注の使い方]^ “ハーメネイー体制下における法学権威と学知システムの変容 ―国家による宗教制度への政治的影響力をめぐる考察―”. 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS). pp. 28-31. 2019年8月1日閲覧。
^ “ハーメネイー体制下における法学権威と学知システムの変容 ―国家による宗教制度への政治的影響力をめぐる考察―”. 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS). pp. 21-22. 2019年8月1日閲覧。
^ “ ⇒「我々は、覇権主義と支配体制、数カ国による世界征服に反対である」” (日本語版). khamenei.ir(公式サイト) (2010年2月17日). 2010年10月17日閲覧。[リンク切れ]
^ “イランの最高指導者ハメネイ氏が重病に、公の場に姿見せず?報道”. bloomberg.co.jp. ブルームバーグ. (2022年9月17日). https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-09-16/RIBBF3DWLU6801 2022年9月17日閲覧。 
^ 反スカーフデモ弾圧 イラン現体制に終止符を/仏在住のハメネイ師おい 公然と批判『東京新聞』夕刊2023年2月15日3面(同日閲覧)

外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、アリー・ハーメネイーに関連するカテゴリがあります。

The office of the Supreme Leader

アリー・ハーメネイー公式サイト(ロシア語、フランス語スペイン語英語ウルドゥー語、アラビア語、ペルシア語)

Imam Khamenei

BBC News' profile on Ayatollah Ali Khamenei 英国放送協会(BBC)










イラン最高指導者

ルーホッラー・ホメイニー1979-1989 / アリー・ハーメネイー1989-










イラン・イスラム共和国大統領


アボルハサン・バニーサドル 1980-1981

モハンマド・アリー・ラジャーイー 1981

アリー・ハーメネイー 1981-1989

ハーシェミー・ラフサンジャーニー 1989-1997

モハンマド・ハータミー 1997-2005

マフムード・アフマディーネジャード 2005-2013

ハサン・ロウハーニー 2013-2021

エブラーヒーム・ライースィー2021-2024

モハンマド・モフベル代行、2024


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