アリヤ・イゼトベゴヴィッチ
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ボスニア政府軍は頻繁にクロアチア人勢力によって捕らえられているのとは対照的に、これらの「ムジャーヒディーン」たちは、クロアチアのスプリトザグレブから来て、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内にクロアチア人が建国を宣言したヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国を問題なく通過してきていることになる。ボスニア政府軍に所属したクロアチア人の高官である将軍スティエパン・シベル(Stjepan ?iber)によると、これらの外国人兵のボスニア入りのかなめの役割を果たしたのはクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンとクロアチアの防諜組織であり、クロアチアによるボスニア紛争への加担と、クロアチア軍による犯罪を正当化する事を目的としているとされる。イゼトベゴヴィッチはこれらの「ムジャーヒディーン」たちを、イスラム世界によるボスニア支持の象徴と見なしているが、彼らは軍事的には大きな貢献となはらず、政治的には重荷となった[9]

ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の領土防衛大臣ハサン・チェンギッチ(Hasan ?engi?)は、イランと強い結びつきを持っており、1996年にチェンギッチの更迭は、アメリカ合衆国がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦軍に対する資金と装備の支援の引き換えに、強く求めていた要求であった。

イゼトベゴヴィッチは中央集権の下での多民族国家としてのボスニア・ヘルツェゴビナを希求した。これは当時の情勢の下では不可能とも思われる構想であった。ボスニアのクロアチア人は、サラエヴォの政府には期待せず、クロアチア政府によって軍事的・資金的に援助を受け、クロアチア人自身による民族国家「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」をヘルツェゴヴィナと中央ボスニア地方にうち立てていた。ほとんどの地域では、局地的なセルビア人勢力とクロアチア人勢力による休戦が結ばれていた(クレシェヴォ (Kre?evo)、ヴァレシュ (Vare?)、ヤイツェなど)。クロアチア人勢力は、中央ボスニアの町ゴルニ・ヴァクフおよびノヴィ・トラヴニク(Novi Travnik)において1992年6月、はじめてボシュニャク人に対する攻撃に及んだものの、攻撃は失敗に終わった。グラーツ合意(Graz agreement)はクロアチア人勢力の間に大きな分裂をもたらし、分離主義者の勢力を勢いづかせた。これによって、ボシュニャク人勢力に対するラシュヴァ渓谷民族浄化作戦(La?va Valley ethnic cleansing)が引き起こされた。この作戦はヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の政治的・軍事的指導者らによって1992年5月から1993年3月にかけて計画され、続く4月に実施され、1991年11月にクロアチア人民族主義者によって規定された目標の具現化であった[10] [11][12]

全般的な混乱に加えて、イゼトベゴヴィッチのかつての盟友であったフィクレト・アブディッチはツァジンヴェリカ・クラドゥシャ自治体の領域において、サラエヴォの政府に反抗し、スロボダン・ミロシェヴィッチやフラニョ・トゥジマンの協力の下で「西ボスニア自治州」を設立した。アブディッチの一派はまもなくボスニア政府軍によって鎮圧された。この時点で、イゼトベゴヴィッチによるサラエヴォの政府は、ボスニア・ヘルツェゴビナ全土のうち、わずか25%を統制下におき、ボシュニャク人を代表する勢力に過ぎなかった。

1993年中ごろ、イゼトベゴヴィッチは、ボスニアを民族ごとに分割したうえでサラエヴォの政府の下に置き、かつボシュニャク人に最大の領土を与える和平案に合意した。ボシュニャク人とクロアチア人の間の戦闘は、アメリカ合衆国の調停によって1994年3月に停止され、それ以降は両勢力は対セルビア人で協力関係となった。この頃から、NATOは紛争により積極的に介入するようになり、ボスニアのセルビア人が停戦を破ったり飛行禁止区域を侵した際には、セルビア人勢力に対する局地的な爆撃などを行った。クロアチア人勢力は、アメリカの軍事コンサルタントMilitary Professional Resources, Inc.によるクロアチア軍に対する指導によって間接的に利益を受けた。加えて、国際連合による武器禁輸にも関わらず、クロアチアはボスニアのクロアチア人勢力に対して大量の武器を供与し、少数をボスニア政府軍にも供与した。多くのボスニア軍の供給はイスラム世界、特にイランから空輸によって運び込まれ、1996年にアメリカ合衆国の調査の際に問題となった。

1993年9月、ボシュニャク人知識人会議(Drugi bo?nja?ki sabor)は、歴史的な民族呼称である「ボシュニャク人」を、それまでの呼称であった「ムスリム人」に代わって再導入した。ユーゴスラビア時代、「ボシュニャク人」の呼称は、ボスニアにおける支配力が失われることを恐れたセルビア人によって反対され、その代わりに「ムスリム人」の呼称が導入されていた。ユーゴスラビアによる「ムスリム人」政策は、ボシュニャク人の間では民族性の無視と、ボスニアという地域性の否定であり、彼らを民族性ではなく宗教によって区分するものであったと見なされた[13]。ボスニアの政治家のハムディヤ・ポズデラツ(Hamdija Pozderac)は、1971年ヨシップ・ブロズ・チトーとの会談の中で、「彼らは、ボスニア性を認めず、代わりにムスリム性を提案してきた。この呼称は誤りであるものの、我々はこれを受け入れ、これを進展の第一歩としよう」としている。
終戦

1995年8月、スレブレニツァの虐殺に続いて、NATOは2週間にわたる集中的な空爆作戦を展開し、ボスニアのセルビア人勢力の命令・指揮系統を破壊した。これによってクロアチア人とボシュニャク人の軍は、それまでセルビア人が支配していた地域への攻勢が実現し、ボスニア・ヘルツェゴビナの国土をボシュニャク人・クロアチア人とセルビア人でほぼ半分に分ける状態に至った。攻勢はセルビア人勢力の事実上の首都であったバニャ・ルカの直前で停止した。ボシュニャク人が進軍を停止したとき、彼らはバニャ・ルカに電力を供給している発電所を制圧し、セルビア人勢力に対して停戦合意への圧力をかけた。

各方面はデイトンにてアメリカ合衆国の監督の下で和平交渉を進めた。クロアチア人とセルビア人の利益はそれぞれクロアチアとセルビアの大統領であるトゥジマンとミロシェヴィッチが代表していた。イゼトベゴヴィッチは、国際的に承認されたボスニア政府を代表していた。
終戦後イスタンブール市によって、サラエヴォに建てられたイゼトベゴヴィッチの墓。

1995年11月、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が公式に終わってから、イゼトベゴヴィッチは大統領評議会の議長に就任した。民主行動党の影響力は、国際社会によって設置されたボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表によって低下させられた。上級代表はボスニア・ヘルツェゴビナを監視し、大統領評議会や議会、クロアチア人とボシュニャク人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人主体のスルプスカ共和国よりも上位の権限を持っていた。イゼトベゴヴィッチは2000年10月に74歳で、健康上の理由のために大統領評議会を退いた。しかし、イゼトベゴヴィッチはその後もボシュニャク人の間で高い人気を維持し、デド(Dedo)の愛称で親しまれた。この愛称は、トルコ語で「祖父」を意味する「dede」に由来している。イゼトベゴヴィッチの支援によって民主行動党は2002年の選挙で政権に返り咲いた。

セルビア人民族主義者や組織は2度にわたって旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に対してイゼトベゴヴィッチを戦争犯罪やその他の容疑で訴追するように求めた[14]旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷によるイゼトベゴヴィッチに対する調査は一度は始められたものの、彼の死によって中止された[15]。自伝『逃れられない疑問』(Inescapable Questions)の中で、イゼトベゴヴィッチは、ある場面で少数のボシュニャク人兵士が故意に市民を殺害したことを認め、これに関して、彼の政府による急ごしらえの軍の統率を保つことの困難さについて詳述した[16]

イゼトベゴヴィッチは2003年10月、自宅で転倒しケガを負ったことで心臓病が悪化したため、サラエヴォにて死去した。死後、サラエヴォの大通り「Ulica Mar?ala Tita」(チトー元帥通り)および「サラエヴォ国際空港」に彼の栄誉を称えての改称が提案されたが、これはスルプスカ共和国の政治家からの反対を招き、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表のパディ・アッシュダウン(Paddy Ashdown)によって改称は阻止された。

イゼトベゴヴィッチの墓はサラエヴォのコヴァチ(Kova?i)墓地にあり、2006年8月11日に何者かによって爆破された[17]
私生活など

イゼトベゴヴィッチはハリダ・レポヴァツ(Halida Repovac)と結婚し、3人の子どもレイラ(Lejla)、サビナ(Sabina)、
バキル(Bakir)をもうけた。長男バキルは2006年10月民主行動党所属の国会議員に選出され、更に2010年11月には大統領評議会ボシュニャク人議員として、3人から成る集団的元首機関の成員の1人となった。


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