紀元前4世紀から紀元後5世紀までのインドの天文学及び数学について概述する。ヴェーダ時代には宗教的な供犠を実施する必要性から、27又は28の星宿を基準に太陽と月の動きを観測する天文学が生じた[12]。これらの知識は「ガニタ・ジョーティシャ」と呼ばれる天文学の知識としてまとめられ、ヴェーダの補助学となった[12]。
『アーリヤバティーヤ』詳細は「アーリヤバティーヤ」および「:en:Aryabhatiya
『アーリヤバティーヤ』は現代に伝わった唯一の著書であると共に、著者名が判明しているインドの数学書の中で最古のものである[2]。バースカラI(英語版)(7世紀)やニーラカンタ・ソーマヤージ(英語版)(1444 ? 1544)が注釈を書いた。
『アーリヤバティーヤ』は革新的な内容であったが、伝統と妥協しているところもあるとされる[13]。林(1993)は妥協点の一つにジャイナ教で重要な概念とされる宇宙論的時間概念が含まれる点に注目し、パータリプトラはかつて(紀元前4世紀)ジャイナ教の聖典結集が行われたジャイナ教学の中心地であり、アーリヤバタの時代前後にはジャイナ教徒が数学分野で活躍していたことなどから、アーリヤバタとジャイナ教徒の学者との接触があった可能性を指摘する[13]。 6世紀のヴァラーハミヒラなど多くの天文学者の著書から『アーリヤシッダーンタ』という天文書が存在したことが確実視される[14]。ただし、現代には伝わっておらず、正確な内容は不明である[4]。題名はアーリヤバタの天文学(シッダーンタ)を意味する[14]。『アーリヤシッダーンタ』は7世紀の北インドで最高の流行をもたらした[14]。アーリヤバタの批判者、ブラフマグプタは、これを非難する意図を込めて、「甘美な砂糖で調理した食物」を意味する『カンダ・カーディヤカ』という題名で『アーリヤシッダーンタ』の要約版をつくるほどであった[14]。 K. V. サルマー アーリヤバタの弟子としては、ラータデーヴァ、パーンドゥランガ・スヴァーミー、ニシャンクの3人の名前が伝わっている[1]。このうち、ラータデーヴァは、ヴァラーハミヒラによると、東ローマ帝国に伝わったギリシア数学を紹介する『ローマカシッダーンタ
『アーリヤシッダーンタ』
後半生
『アーリヤバティーヤ』以後のアーリヤバタの足跡はまったく不明である[14]。アーリヤバタをバラモンの立場から激しく批判したブラフマグプタは『ブラーフマスプタシッダーンタ』の第1章62節で、「アーリヤバタの支持者は公然とカモシカのように立ち向かいはしない。彼らはライオンを見てもライオンに立ち向かいはしない。」と書いている[14]。この文言に関してソ連のインド学者レーヴィン(ロシア語版)は、ブラフマグプタがバラモンの伝統を墨守する伝統主義者をカモシカを簡単に殺すライオンにたとえ、アーリヤバタを人間的には弁護していると解釈した[14]。レーヴィンによれば、アーリヤバタが科学者としての態度を堅持したため反科学から非難されたことをブラフマグプタは言外に述べており、アーリヤバタが正統派バラモンやその忠実な信者から攻撃を受けて、非難や迫害にその身をさらすことを避けたのは、ほとんど疑いえないという[14]。