アリストテレス
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アリストテレスは首都ペラから離れたところにミエザの学園を作り、弁論術文学科学医学、そして哲学を教えた[8]。ミエザの学園にはアレクサンドロスのほかにも貴族階級の子弟が彼の学友として多く学んでおり、のちに彼らはマケドニア王国の中核を担う存在となっていった。

教え子アレクサンドロスが王に即位(紀元前336年)した翌年の紀元前335年、49歳頃、アテナイに戻り、自身の指示によりアテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設した(リュケイオンとは、アテナイ東部郊外の、アポロン・リュケイオスの神域たる土地を指す)。弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥(そぞろ歩き、散歩)しながら議論を交わしたため、かれの学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれた。このリュケイオンもまた、529年にユスティニアヌス1世によって閉鎖されるまで、アカデメイアと対抗しながら存続した。

紀元前323年アレクサンドロス大王が没すると、広大なアレクサンドロス帝国は政情不安に陥り、マケドニアの支配力は大きく減退した。これに伴ってアテナイではマケドニア人に対する迫害が起こったため、紀元前323年、61歳頃、母方の故郷であるエウボイア島カルキスに身を寄せた。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったとも)、紀元前322年、62歳で死去している。
思想

アリストテレスの著作は元々550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのは約3分の1である。ほとんどが講義のためのノート、あるいは自分用に認めた研究ノートであり、公開を想定していなかったため簡潔な文体で書かれている。この著作はリュケイオンに残されていたものの、アレクサンドリア図書館が建設され資料を収集しはじめると、その資料は小アジアに隠され、そのまま忘れ去られた。この資料はおよそ2世紀後の紀元前1世紀に再発見され、リュケイオンに戻された。この資料はペリパトス学派の11代目学頭であるロドス島アンドロニコスによって紀元前30年頃に整理・編集された。それが現在、『アリストテレス全集』と呼称されている文献である。したがって、われわれに残されている記述はアリストテレスが意図したものと異なっている可能性が高い。

キケロらの証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようであるが、まとまった形で伝存しているものはない。

アリストテレスは、「論理学」があらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であることを前提とした上で、学問体系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。

アリストテレスの哲学には現在では多くの誤りがあるが、その誤謬の多さにもかかわらずその知的巨人さゆえに、あるいはキリスト教との結びつきにおいて宗教的権威付けが得られたため、彼の知的体系全体が中世を通じ疑われることなく崇拝の対象となった。これがのちにガリレオ・ガリレイの悲劇を生む要因ともなる。中世の知的世界はアリストテレスがあまりにも大きな権威を得たがゆえに誤れる権威主義的な知の体系化が行われた。しかし、その後これが崩壊することで近代科学の基礎確立という形で人間の歴史は大きく進歩した。アリストテレスの総体的な哲学の領域を構成していた個別の学問がその外に飛び出し、独立した学問として自律し成立することで、巨視的にはこれが中世以降の近世を経て現代に至るまで続いてきた学問の歴史となる。アリストテレスの誤りの原因は、もっぱら思弁に基づき頭で作り上げた理論の部分で、事実に立脚しておらずそれが原因で近代科学によって崩れたが、その後「事実を見出してゆくこと(Fact finding)」が原理となったとする立花隆の見解がある[3]
論理学

アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく問答法を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として三段論法などの形で体系化された。

アリストテレスの死去した後、かれの論理学の成果は『オルガノン』 (Organon) 6巻として集大成され、これを元に中世の学徒が論理学の研究を行った。
自然学(第二哲学)「形相」および「質料」も参照

アリストテレスによる自然学に関する論述は、物理学天文学気象学動物学植物学等多岐にわたる。

プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)。さまざまな物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素が想定されている。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実事象、感覚知見に根ざしたものとなっている。

アリストテレスの宇宙論は、同心円による諸球状の階層的重なりの無限大的な天球構造をしたものとして論じている。世界の中心に地球があり、その外側に水星金星太陽、その他の惑星らの運行域にそれぞれ割り当てられた各層天球があるとした構成を呈示する。これらの天球層は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール」(エーテル)に帰属する元素から成るとする。そして「その天球アイテール」中に存在するがゆえに、太陽を含めたそれらの諸天体(諸惑星)は、それぞれの天球内上を永遠に円運動しているとした。加えてそれらの天外層の上には、さらに無数の星々、いわゆる諸々の恒星が張り付いている別の天球があり、他の諸天球に被いかぶさるかたちで周回転運動をしている。さらにまた、その最上位なる天外層上には「不動の動者」である世界全体に関わる「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因(者)がまさにそれであるとする。(これは総じて、アリストテレスの天界宇宙論ともなるが、あとに続く『形而上学』(自然学の後の書)においては、その「第一動者」を 彼は、「神」とも呼んでいる。)

アリストテレスの自然学研究の中で最も顕著な成果を上げているのは生物学、特に動物学の研究である。生物学では、自然発生説をとっている[3]。その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種にわたる生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。また、受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。一切の生物はプシュケー: ψυχη、和訳では霊魂とする)を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシュケーは生物の形相であり(『ペリ・プシュケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシュケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつ生物を動物、もたない生物を植物に二分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物の存在を示唆している)。

さらに、人間理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている。
二元的宇宙像について

アリストテレス自然学では、月下の世界は土・水・空気・火の四元素より成り、それらは相互に移り変わることが可能としている。この月より下の常に転化して生成・変化・消滅を繰り返す世界は「地上界」と呼ばれる。それに対して月とそれより先のエーテルよりなる世界では決して転化することがなく、生成や消滅は見られない。この不変の世界は「天上界」と呼ばれる。アリストテレスはそれぞれの世界は別な法則に従っていると考えた。この考え方は二元的宇宙像(論)と呼ばれている[9]

このアリストテレスによる二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、「地上界の出来事には必然的に天上界が作用している」という考え方の基本となった。月齢による海の干満や曇りの日でも花が太陽の方向を向く植物などから、当時の人々から見ればこれは当然であった[10]。この考えは、地上界の出来事の原因を天上界(つまり星の動き)に求める占星術(学)が隆盛するもとともなった。プトレマイオスはこの法則性を綿密に探るために彼の著書「アルマゲスト」で、将来の惑星の動きを(誤差は大きかったが)計算して予測できる宇宙モデルを初めて構築した。そして著書「テトラビブロス」では、天上界が及ぼす地上界への影響の法則性を探ろうとした。これは実証学的な学問だった。

ところが、占星術は天上界による地上界への影響がはっきりしないまま、星の動きを「未来を指し示す予兆」と捉える星占い(ホロスコープ)として、幅広く民衆に広がっていった[10]。他方、この人々に広がった星占いは、12世紀以降にエフェメリス(天体暦)やアルマナック(生活暦)という惑星を含む天体の正確な運行という強い需要を喚起し、後に天文学が発展する動機ともなった[11]

天上界が及ぼす地上界への影響の法則性を探ろうとした例として、16世紀のデンマークの天文学者チコ・ブラーエがある。彼は占星学の研究者でもあり、彼が精巧な天文観測装置を作った動機の一つとして、天上界の地上界への影響の法則を正確に捉えられないのは観測精度が足らないと考えたことがある[11]。そして天上界が及ぼす地上界への影響が最も現れるものの一つとして気象を取り上げた。彼は天文観測しながら1582年の10月から1597年の4月まで、15年間にわたってヴェーン島で気象観測の記録を残している。これは占星気象学の検証のためと思われている[11]


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