アラン・ムーア
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同誌で主流だったバイオレンスSFの形式を反転させて、社会福祉が後退した未来世界に生きる特に勇敢でも賢くも強くもない[20]失業者の女性を主人公にしていた[131][132]。英国の社会状況を反映した物語は若者の共感を集めた[133]

ムーアは英国コミック界で成功を収めながら、クリエイターの権利が守られていないことに不満を募らせていた[134]。1986年には 2000 AD が作品の著作権を保持していたことに対してほかのクリエイターと共に抗議し、寄稿を止めた。全9部の構想だった The Ballad of Halo Jones は第3部までで未完に終わった[135][136]。ムーアは主義主張をはっきり口にする人物で、特に著作権の帰属や創作上の制約については強硬であったため、その後もキャリアを通じて数多くの出版社と絶縁することになる[19][137][138]
米国進出とDCコミックス: 1983年?1988年スワンプシング(2014年のコスプレ)。沼に落ちて怪物となった男の物語はムーアによって根底から覆された[139]

1983年、米国のメジャー出版社DCコミックスの編集者レン・ウィーン(英語版)は 2000 AD 誌のムーア作品に注目し[115][140]、『ザ・サガ・オブ・スワンプシング』の原作に起用した。原稿料は英国時代の4?5倍になった[141]。これ以降ムーアは英国での仕事を整理しながら米国に軸足を移していく[142]

ムーアは作画家スティーヴン・R・ビセット(英語版)、リック・ヴィーチ(英語版)、ジョン・タトルベン(英語版)らとともに、古臭く不人気なモンスター物だった『スワンプシング』の再創造を行った[143]。植物の意識を描くなど表現様式の実験が行われたほか[144]、環境問題のような社会的テーマや、性交・月経といったタブー破りの題材が取り入れられた[145]。ムーアは同誌を第20号(1983年9月)から第64号(1987年6月)まで4年近く書き続け[146]、月間発行部数を1万7千部から10万部以上に伸ばした[147]。この成功を見たDC社は英国から積極的に新人原作者を起用するようになった(グラント・モリソン(英語版)やニール・ゲイマンなど)[148]。伝統的なスーパーヒーロー物が中心だった米国と異なり、英国のコミック文化はアンチヒーローブラックコメディ、暴力性や反権威が持ち味だった[149]。研究者グレッグ・カーペンターによると当時の米国コミックはファン出身の書き手がマニアックなストーリーを再生産する停滞期であり[150]、新しい感覚の流入(ブリティッシュ・インヴェイジョン(→英国の侵攻)と呼ばれた)は影響が大きかった[151]。これが米国で「文学的」コミックを生み出した流れの一つである[10][152][注 18]

この時点でのムーアは幼少期の思い出と結びついたDC作品と関われることに高揚していた[154]。1985年の春からDC社のほかの二線級シリーズに携わり始め、『ヴィジランテ(英語版)』誌には児童虐待を扱った前後編を書いた(第17?18号、1985年)[155][156]。『グリーンランタン』シリーズでは、この時期にムーアが導入したアイディアが後の世代によって『シネストロ・コァ・ウォー』(2007年)や『ブラッケスト・ナイト(英語版)』(2009年)のような大型ストーリーに発展させられることになる[157][158]


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