アラン・ムーア
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フレスコ画を生業にしていた父方の曾祖父は放蕩家で[25]、パブでカリカチュアを描いて支払いの代わりにしていたという[26]。しかしムーアの両親の代には芸術や文学とは無縁だった[27]

ムーアの生家は屋外便所の古い建物だったが、電気が通っているだけ恵まれている方だった[28]。ノーサンプトンの「バロウズ[注 4]」地区は英国でも有数の貧困地域で[29]、識字率が低く公共サービスも乏しかったがその住民とコミュニティには愛着を持った[30]。幼いムーアは金銭的な豊かさより優先すべきものがあると教えられた[26]コミックス・スタディーズ研究者ジャクソン・エアーズは[31]、ムーアは労働者階級の育ちを通じて共同体主義、個人の対等、自主自律の感覚をバランスよく身に着けたと書いている[32]

5歳で読むことを覚え、地元の図書館に通った[33]。高度な教育を受けなかった両親も息子には読書を勧めた[34]。ムーアはSF、魔術、ファンタジー神話伝説のように現実から離れたジャンルを好んでいた[35]。初等学校に入学するころコミックを読み始めた[36]。The Topper や The Beezer のような英国の週刊コミック誌を手始めに、やがて貨物船の底荷として米国から流れてくる『フラッシュ』『ディテクティヴ・コミックス』『ファンタスティック・フォー』などを漁るようになった[37]。労働者階級の現実から一歩も出ない英国コミック誌に比べて[38]、米国のヒーローコミックに描かれる大都市は未来世界のように見えた[39][40]。数年のうちにヒーローの活躍よりも作品の仕掛けや作者の意図に興味を持ち始め[41]、自身でもコミックを描き始めると友人に回覧して小銭を集めては子供支援団体に募金した[26][42]

初等学校時代、学力と体格に優れたムーアは自己肯定感にあふれちょっとした神様気取りだった。中等教育に進むにあたってイレブンプラス(英語版)試験に合格し、大学進学者向けの上位校(グラマースクール)への入学資格を得た[42]。そこで初めて教育の高い中流階級と出会い、首席の優等生から最底辺になったことを知って衝撃を受けた[43]。やがて学校を嫌うようになり、勉強にも興味を持てず、公教育には子供に時間順守、服従、退屈への順応を教え込む隠されたカリキュラムがあると考えるようになった[44]

1960年代後半から黎明期のコミックファンジンで詩やエッセイ、イラストレーションを発表し始め、ファン活動を通じて後の共作者の多くと知り合った[21][45][46][注 5]。その中でもスティーヴ・ムーア(英語版)(血縁なし)からは、後のコミック界入りや魔術への入門で大いに影響を受けることになる[48]。当時の英国ファンダムはヒッピー文化色が強く、ムーアの人格形成には1960年代のカウンターカルチャーが深く根差された[45]。ムーアは学校でも詩の同人誌 Embryo(→胚、萌芽)を出したが[49][50]、「マザーファッカー」という言葉を載せたことが元で校長から発禁にされた[51]

1971年、ティモシー・リアリーの思想に影響を受けて校内で幻覚剤LSDを売買したことでグラマースクールを放校された[52][53][54]。校長は近隣の学校に通達を出し、ムーアが在校生の風紀に悪影響を与えるから入学させないように伝えたという[52][55]。型にはまらない息子の個性を認めていた両親もこれには落胆した。ムーアは両親が亡くなる1990年代までドロップアウトした理由を公には語らなかった[56]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}LSDは素晴らしい経験だった。人に勧めるつもりはないが、私には … 現実が確定したものではないという考えを叩きこんでくれた。いつも見ている現実は一つの確かな現実だが、それがすべてではない。ほかのものが同じくらい確かな意味を持つような別の視点が存在する。そう知ることで私は根底から変わった。—アラン・ムーア(2003年)[57]

それから数年はトイレ清掃や皮革工場の仕事をしながら実家で暮らした[58]。学校の友人とは縁が切れ、社会への怒りを抱えていた[59]。このころは Embryo を通じて加入したノーサンプトン・アーツ・ラボ(英語版)の活動が数少ない他人との交流の機会だった[60]。アーツ・ラボは実験的・反体制的な芸術運動で、ジャンルの異なる芸術家の協同を趣旨の一つとしていた[61][62]。ノーサンプトンのグループはせいぜい数十人の無名の集まりにすぎなかったが、ムーアはそこで作詞や劇作、演技に目を開かれた[63][64]。特に詩の朗読には自身でも才能を感じた[65]。これらの経験は後の執筆や公演活動の基礎となった[66][67]


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