これらのシニカルな作品は、同時代のコミック界からはジャンルに暗い現実を突きつけるリヴィジョニズムとして受け取られた[185]。その影響は大きく、ヒーローコミック全体が「グリム・アンド・グリッティ(→暗く、ざらっとした)」と呼ばれる方向性に流れることになった。しかしそれらは多くが「バイオレンス、セックス、神経症」というムーアの表層的な部分だけを模倣したものだった[186]。ムーアは『ウォッチメン』がきっかけとなってジャンルの可能性を広げる作品が出てくることを期待していたが、同工の亜流作ばかりで失望させられたと述べている[187]。1986年には独立系出版社ファンタグラフィックスのチャリティ誌に書いた短編 In Pictopia によって[188]、流行に乗って過去のクリエイターの営為を改変するメジャー出版社を批判した[189]。同年の後半には未来の荒廃したDCユニバースを舞台にした Twilight of the Superheroes(→スーパーヒーローの黄昏)という大型クロスオーバーシリーズの構想を立てたが、それが実現するより先にDC社と関係を絶つことになった[190][注 21]。 DCコミックスで活動していた5年あまりの間に、ムーアは影響力の強い作品を次々に発表して名声を築き上げた[194]。『ウォッチメン』の成功はムーアを生活の不安から解放し、生涯にわたる創作上の自由をもたらした[195]。その一方でDCとの関係はいくつかの問題を巡って徐々に悪化していった[196]。完結した自作の続編やスピンオフを別の作家に書かせるような販売策はムーアの信条にそぐわなかった[197][注 22]。1987年にDC社が映画のような年齢レイティング制とガイドラインを導入しようとすると[注 23]、ムーアはフランク・ミラーらとともに反対の論陣を張った[202]。レイティングは「子供向け」作品を毒にも薬にもならないものにし、「成人向け」作品をセックスと暴力頼りの低質なものにするというのがムーアの考えだった[203]。クリエイターらの抗議は受け入れられず、それがDC離脱の直接的な理由となった[196][204]。DCに移籍して刊行されていた『Vフォー・ヴェンデッタ』(1989年完結)を最後に寄稿は打ち切られた[205]。なお米国コミック出版のもう一方の雄マーベル・コミックスとは『マーベルマン』の名の使用を巡ってそれ以前に絶縁していた[206][207](同作は Warrior 終刊後に米国のエクリプス
DCとの決裂
作品の著作権の問題はその後も尾を引き続けた。米国のコミック界では作者のオリジナルな作品やキャラクターでも出版社が著作権を保有するのが一般的だが、当時のDCコミックスはクリエイターの権利を拡大していく方針を取っており[209]、『ウォッチメン』と『Vフォー・ヴェンデッタ』の契約書には「作品が絶版になれば著作権は作者に復帰する」という条項が加えられていた。しかし、年数が経っても2作が絶版になることはなかった[196][210]。ムーアはこれを裏切りとみなした[211]。 メジャー出版社に背を向けたムーアは[212]、自分の書きたいテーマはSF冒険ものやスーパーヒーローのジャンルには収まりきらないと公言し[213]、それらのジャンル作品で確立したポストモダンな作風を社会的な作品に適用し始める[214]。しかし大手出版社・取次から離れた執筆活動は順調に行かず、一般コミックファンからの関心は薄れていった[215][216]。ムーアは後に振り返ってこの時期を原野行の時代[216]一大私的作品期[217]と呼んでいる。 1988年にムーアは個人出版社マッドラブを設立した。エイズ禍が高まる中でマーガレット・サッチャー政権が提出した反同性愛法案「第28条
インディペンデント期とマッドラブ: 1988年?1993年