アラン・ムーア
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アーツ・ラボは実験的・反体制的な芸術運動で、ジャンルの異なる芸術家の協同を趣旨の一つとしていた[61][62]。ノーサンプトンのグループはせいぜい数十人の無名の集まりにすぎなかったが、ムーアはそこで作詞や劇作、演技に目を開かれた[63][64]。特に詩の朗読には自身でも才能を感じた[65]。これらの経験は後の執筆や公演活動の基礎となった[66][67]

1970年代にもヒーローコミックは読み続けていたが、瑣末な設定にこだわるコミックファン一般とは距離を置くようになった[68]。当時の作品の中ではジャック・カービーの「フォースワールド(英語版)」やフランク・ミラー期の『デアデビル』に引きつけられた[69][70]。それ以上に熱中したのはユーモア誌『MAD』や[71]アート・スピーゲルマンとビル・グリフィス(英語版)による前衛的な Arcade: The Comics Revue 誌だった。後のエッセイでは同誌をアンダーグラウンド・コミックスというそもそもの思想のほとんど完璧な到達点と呼んでいる[72]

1973年ごろに芸術関係の集まりを通じて出会ったフィリス・ディクソンと結婚してアパートに移り、ガス委員会(英語版)の下請け会社で事務仕事をした[73][74]。しかし仕事に満足できず、芸術的な活動で生計を立てたいと考えた[75]。1974年から翌年にかけてローカル紙 Anon にアマチュアとしてコミックストリップ[注 6] Anon E. Mouse(→アノニーマウス)を描いたが、掲載紙の穏健な政治志向に合わず5回で終わった[77]。1977年の秋にフィリスが妊娠すると、赤ん坊の顔を見てしまえば決心が鈍ると考えてすぐに勤めを辞め、週42.50ポンドの失業給付(英語版)に頼りながらコミック作家を目指して本格的に活動を始めた[78]
漫画家としての活動初期: 1978年?1983年

1978年2月、アーツ・ラボの人脈を通じてオックスフォードのアングラ隔週刊紙 Back Street Bugle に St. Pancras Panda(→パンダのセント・パンクラス[注 7])を無償で寄稿し[80]、翌年3月まで描き続けた[81]。『MAD』誌に影響を受けた1回10?15コマのギャグ漫画だった[80]。初めて対価を得たのは、1978年10月に音楽週刊誌『NME』に掲載されたエルヴィス・コステロのイラストレーションだった[82]。翌年、ヒッピー文化の影響が強い音楽雑誌 Dark Star に友人の原作者スティーヴ・ムーアと組んだ連作を寄稿した[83]。失業給付を受給しながら収入を得ていることを明るみに出したくなかったため[78]、作曲家クルト・ヴァイルをもじった Curt Vile(→「不愛想で下品な」)という筆名を使っていた[54]

Dark Star とほぼ同時に発行数25万部の音楽週刊誌 Sounds でチャンドラーを気取った口調の探偵が「ロックンロールの死」を調査するスピーゲルマン風の作品 Roscoe Moscow(1979年?1980年)が連載された[84][85]。同誌では Curt Vile として音楽評やインタビュー記事の執筆も行った[86]。Roscoe Moscow が終わるとSFパロディ The Stars My Degradation(→わが落ち行くは星の群[注 8])(1980年?1983年)が後を引き継いだ[87][88]


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