寄稿先のイメージ・コミックスは当時ブームの真最中だった。同社は暴力描写・女性の性的対象化といった作風[271]、作画重視・マーケティング重視の方針で知られており、ムーアのような「文学的」コミックを称揚する批評家からは評価が低かった[272]。しかしクリエイター主導で設立された新会社ということもあり、著作権や創作上の自由についての方針はムーアにとって賛同できるものだった[273][274]。ムーアはまず10万ドル+印税という破格の報酬で『スポーン』第8号(1993年)のゲスト原作者を務め[275][注 32]、同年にオリジナル作品『1963(英語版)』[注 33]全6号を出した。60年代のマーベル・コミックス作品のパスティーシュで[276]、後に一般的になるスタン・リーパロディの先駆けだったが[277]、ムーア自身が生み出したシリアスでダークなスーパーヒーロー像の全盛期でもあり、こうした路線はファンの支持を得られなかった[274][278]。ムーアは後にこう語っている。… 私がいなかった間にコミック読者がどれほど変わったか気づいた。突然、読者の大半が読みたがっているのはページ全体がピンナップ風になったストーリー皆無のやつだと思えてきた。そこで、そういうマーケットに向けてまともな作品を書くことができるか純粋に試してみようと思った[279]
ムーアは13歳から15歳向けの、平均よりはましな作品の執筆を始めた。『スポーン』の派生作『バイオレーター(英語版)』(1994年)、『バイオレーターvsバドロック(英語版)』(1995年)、『スポーン: ブラッド・フュード』(1995年)はその例である[280]。これらの作品は評者によってバカバカしいエクスプロイテーション・コミックでも風格を保っているとされることもあれば[281]、[当時の読者には] ムーアの感覚が鈍ったように見えたことだろうという評価もある[282]。そうして収入を確保するかたわら、非商業的な『フロム・ヘル』と Lost Girls の執筆を続けた。本人の言によると交響楽団に所属しながら、週末にだけバブルガム・バンドで演奏するようなものだった[282][283]。
1995年にはジム・リーの月刊シリーズ『WILDC.A.T.S(英語版)』の原作を任され、第21号から14号にわたって書き続けた[284]。しかし自身でもその出来に満足しておらず、ファンの好みを推し量りすぎて新しいものを書けなかったと言っている[285][注 34]。ある評者は、絶頂期にメインストリームを離れるという決断によって、1980年代のムーアが体現していたポップなエネルギーが霧散したと論じた[287]。
次に請け負ったロブ・ライフェルド(英語版)の『スプリーム(英語版)』(1996年)はスーパーマンの亜流でしかないキャラクターだった[288][289]。ムーアはここで、キャリアの初期で手掛けたスーパーヒーロー作品のように徹底した再構築を行った。しかしリアリズムを強調する代わりに、1960年代のいわゆる「アメリカン・コミックスのシルバーエイジ(英語版)」期の牧歌的なスーパーマンをそっくり真似た[277][289][290]。