アラン・ムーア
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ムーアはまず10万ドル+印税という破格の報酬で『スポーン』第8号(1993年)のゲスト原作者を務め[275][注 32]、同年にオリジナル作品『1963(英語版)』[注 33]全6号を出した。60年代のマーベル・コミックス作品のパスティーシュ[276]、後に一般的になるスタン・リーパロディの先駆けだったが[277]、ムーア自身が生み出したシリアスでダークなスーパーヒーロー像の全盛期でもあり、こうした路線はファンの支持を得られなかった[274][278]。ムーアは後にこう語っている。… 私がいなかった間にコミック読者がどれほど変わったか気づいた。突然、読者の大半が読みたがっているのはページ全体がピンナップ風になったストーリー皆無のやつだと思えてきた。そこで、そういうマーケットに向けてまともな作品を書くことができるか純粋に試してみようと思った[279]

ムーアは13歳から15歳向けの、平均よりはましな作品の執筆を始めた。『スポーン』の派生作『バイオレーター(英語版)』(1994年)、『バイオレーターvsバドロック(英語版)』(1995年)、『スポーン: ブラッド・フュード』(1995年)はその例である[280]。これらの作品は評者によってバカバカしいエクスプロイテーション・コミックでも風格を保っているとされることもあれば[281]、[当時の読者には] ムーアの感覚が鈍ったように見えたことだろうという評価もある[282]。そうして収入を確保するかたわら、非商業的な『フロム・ヘル』と Lost Girls の執筆を続けた。本人の言によると交響楽団に所属しながら、週末にだけバブルガム・バンドで演奏するようなものだった[282][283]

1995年にはジム・リーの月刊シリーズ『WILDC.A.T.S(英語版)』の原作を任され、第21号から14号にわたって書き続けた[284]。しかし自身でもその出来に満足しておらず、ファンの好みを推し量りすぎて新しいものを書けなかったと言っている[285][注 34]。ある評者は、絶頂期にメインストリームを離れるという決断によって、1980年代のムーアが体現していたポップなエネルギーが霧散したと論じた[287]

次に請け負ったロブ・ライフェルド(英語版)の『スプリーム(英語版)』(1996年)はスーパーマンの亜流でしかないキャラクターだった[288][289]。ムーアはここで、キャリアの初期で手掛けたスーパーヒーロー作品のように徹底した再構築を行った。しかしリアリズムを強調する代わりに、1960年代のいわゆる「アメリカン・コミックスのシルバーエイジ(英語版)」期の牧歌的なスーパーマンをそっくり真似た[277][289][290]。その上でメタな視点を取り入れ、アメリカのスーパーヒーロー神話への回帰と、当時のコミックシーンの批評を行ったのである[289][291]。『スプリーム』はムーアにとって数年ぶりに内容と売上の両面で成功をおさめた[292]。1997年には『スプリーム』と『フロム・ヘル』の両作によってアイズナー賞原作者部門を受賞した。エアーズはこれがムーアにとって商業性と作家性の両立を果たした象徴的な出来事だったと書いている[293]
アメリカズ・ベスト・コミックス: 1999年?2008年詳細は「:en:America's Best Comics」を参照

ロブ・ライフェルドのスタジオが経営不振によって出版活動を中止すると、ムーアは仕事を失った共作者のために複数の新シリーズを企画し始めた[294]。イメージ共同経営者の一人ジム・リーがそれらを引き受け、自身のワイルドストーム(英語版)社にムーアが統括するレーベルアメリカズ・ベスト・コミックス(英語版)(ABC) を設立した。しかしその直後、リーはABCを含むワイルドストーム社をDCコミックスに身売りした。このときリーは事情を説明するため自らイングランドに赴き、ムーアがDCと直接やり取りしなくて済むようにすると請け合った[295]。DCによる買収の目的は、ワイルドストームが保有するIPやデジタル彩色技術のみならず、ムーアを再び確保するところにあったと見る向きがある。


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