アラン・ムーア
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同年の後半には未来の荒廃したDCユニバースを舞台にした Twilight of the Superheroes(→スーパーヒーローの黄昏)という大型クロスオーバーシリーズの構想を立てたが、それが実現するより先にDC社と関係を絶つことになった[190][注 21]
DCとの決裂

DCコミックスで活動していた5年あまりの間に、ムーアは影響力の強い作品を次々に発表して名声を築き上げた[194]。『ウォッチメン』の成功はムーアを生活の不安から解放し、生涯にわたる創作上の自由をもたらした[195]。その一方でDCとの関係はいくつかの問題を巡って徐々に悪化していった[196]。完結した自作の続編やスピンオフを別の作家に書かせるような販売策はムーアの信条にそぐわなかった[197][注 22]。1987年にDC社が映画のような年齢レイティング制とガイドラインを導入しようとすると[注 23]、ムーアはフランク・ミラーらとともに反対の論陣を張った[202]。レイティングは「子供向け」作品を毒にも薬にもならないものにし、「成人向け」作品をセックスと暴力頼りの低質なものにするというのがムーアの考えだった[203]。クリエイターらの抗議は受け入れられず、それがDC離脱の直接的な理由となった[196][204]。DCに移籍して刊行されていた『Vフォー・ヴェンデッタ』(1989年完結)を最後に寄稿は打ち切られた[205]。なお米国コミック出版のもう一方の雄マーベル・コミックスとは『マーベルマン』の名の使用を巡ってそれ以前に絶縁していた[206][207](同作は Warrior 終刊後に米国のエクリプス(英語版)社に版権が売られ、『ミラクルマン』と改題された[208])。

作品の著作権の問題はその後も尾を引き続けた。米国のコミック界では作者のオリジナルな作品やキャラクターでも出版社が著作権を保有するのが一般的だが、当時のDCコミックスはクリエイターの権利を拡大していく方針を取っており[209]、『ウォッチメン』と『Vフォー・ヴェンデッタ』の契約書には「作品が絶版になれば著作権は作者に復帰する」という条項が加えられていた。しかし、年数が経っても2作が絶版になることはなかった[196][210]。ムーアはこれを裏切りとみなした[211]
インディペンデント期とマッドラブ: 1988年?1993年

メジャー出版社に背を向けたムーアは[212]、自分の書きたいテーマはSF冒険ものやスーパーヒーローのジャンルには収まりきらないと公言し[213]、それらのジャンル作品で確立したポストモダンな作風を社会的な作品に適用し始める[214]。しかし大手出版社・取次から離れた執筆活動は順調に行かず、一般コミックファンからの関心は薄れていった[215][216]。ムーアは後に振り返ってこの時期を原野行の時代[216]一大私的作品期[217]と呼んでいる。

1988年にムーアは個人出版社マッドラブを設立した。エイズ禍が高まる中でマーガレット・サッチャー政権が提出した反同性愛法案「第28条(英語版)」に抗議するのが目的だった[218][219]。このころムーア夫妻はデボラ・デラノという女性と同居して3人でオープンな性的関係を結んでいたため、その種の規制は他人事ではなかった[218]。同年に刊行されたチャリティ・コミック AARGH [注 24]には、ロバート・クラムら錚々たるコミック作家の寄稿に加えて[220]、同性愛の歴史を綴ったムーアの詩 The Mirror of Love が掲載されていた[注 25][220][224]。政治的な主張を込めた同書の出版はムーアにとって転機となった[225]。続いて、米国中央情報局 (CIA) を相手取った連邦訴訟に関わっていた公益法律事務所クリスティック・インスティチュート(英語版)の依頼を受けて、CIAの非合法活動を告発する Shadowplay: The Secret Team[注 26]を書いた。内容はクリスティックが提供した大量の調査資料に基づいていた[226]。徹底した取材によって実在の事件を作品化する経験はその後の執筆活動に影響が大きかった[226][227]。Shadowplay はクリスティックが刊行したアンソロジー Brought to Light(→白日の下へ)(1988年、エクリプス刊)で発表された[228][注 27]

1990年、コミック自己出版の伝道者デイヴ・シム(英語版)に触発されて自身のマッドラブから Big Numbers を発刊した[230]。『ウォッチメン』に続く代表作として構想された同作は[216]、生地ノーサンプトンをモデルにした英国の地方都市を舞台に、巨大ビジネスが一般人に与える影響とカオス理論[注 28]の概念を組み合わせた社会的リアリズム作品だった[233][234]。読者を選ぶ題材だが、全12号×大判40ページという大部の構想で、ビッグネームのビル・シンケビッチが作画を担当するとあってファンの期待も高かった[235]。しかし2号が出た時点でシンケビッチがフォトリアリスティックなペイントアートという方針を維持できなくなり、作画を降りた[236][237]。ムーアの奔走にもかかわらず、続刊は出なかった。


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