ムーアは『ウォッチメン』によってポップアイコンになりかけ[176]、1987年にはドキュメンタリー番組 Monsters, Maniacs and Moore の主役となった[177]。しかしやがて個人崇拝を嫌ったムーアはファンとの関りを減らすようになり、コンベンションへの参加も止めた[178]。
1988年、作画家ブライアン・ボランドの誘いを受けて『バットマン: キリングジョーク』を共作し[179]、バットマンと宿敵ジョーカーをトラウマに憑りつかれた表裏一体の存在として描いた[180]。フランク・ミラーの『ダークナイト・リターンズ』や『イヤーワン』と並んでバットマンのキャラクターを再定義した重要作品であり[181][182]、ティム・バートンやクリストファー・ノーランによる映画版にも影響を与えている[180][183]。しかしムーア自身の評価は低く[9]、ランス・パーキンは風刺や … 脱構築の強い衝動もなく、バイオレンスとペシミズムだけを[184]扱った作品だと書いている。
これらのシニカルな作品は、同時代のコミック界からはジャンルに暗い現実を突きつけるリヴィジョニズムとして受け取られた[185]。その影響は大きく、ヒーローコミック全体が「グリム・アンド・グリッティ(→暗く、ざらっとした)」と呼ばれる方向性に流れることになった。しかしそれらは多くが「バイオレンス、セックス、神経症」というムーアの表層的な部分だけを模倣したものだった[186]。ムーアは『ウォッチメン』がきっかけとなってジャンルの可能性を広げる作品が出てくることを期待していたが、同工の亜流作ばかりで失望させられたと述べている[187]。1986年には独立系出版社ファンタグラフィックスのチャリティ誌に書いた短編 In Pictopia によって[188]、流行に乗って過去のクリエイターの営為を改変するメジャー出版社を批判した[189]。同年の後半には未来の荒廃したDCユニバースを舞台にした Twilight of the Superheroes(→スーパーヒーローの黄昏)という大型クロスオーバーシリーズの構想を立てたが、それが実現するより先にDC社と関係を絶つことになった[190][注 21]。 DCコミックスで活動していた5年あまりの間に、ムーアは影響力の強い作品を次々に発表して名声を築き上げた[194]。『ウォッチメン』の成功はムーアを生活の不安から解放し、生涯にわたる創作上の自由をもたらした[195]。その一方でDCとの関係はいくつかの問題を巡って徐々に悪化していった[196]。完結した自作の続編やスピンオフを別の作家に書かせるような販売策はムーアの信条にそぐわなかった[197][注 22]。1987年にDC社が映画のような年齢レイティング制とガイドラインを導入しようとすると[注 23]、ムーアはフランク・ミラーらとともに反対の論陣を張った[202]。レイティングは「子供向け」作品を毒にも薬にもならないものにし、「成人向け」作品をセックスと暴力頼りの低質なものにするというのがムーアの考えだった[203]。クリエイターらの抗議は受け入れられず、それがDC離脱の直接的な理由となった[196][204]。DCに移籍して刊行されていた『Vフォー・ヴェンデッタ』(1989年完結)を最後に寄稿は打ち切られた[205]。なお米国コミック出版のもう一方の雄マーベル・コミックスとは『マーベルマン』の名の使用を巡ってそれ以前に絶縁していた[206][207](同作は Warrior 終刊後に米国のエクリプス
DCとの決裂