1968年10月、ヴェルサイユ近郊エランクール町の公衆ゴミ捨て場から射殺死体が発見される。捜査の結果、同年1月までドロンのボディガードを務めていたステファン・マルコヴィッチと判明。マルコヴィッチはドロンに解雇されたのち、親族に「もし自分が殺されたらアラン・ドロンとフランソワ・マルカントーニの仕業だ」との手紙を送っていた。さらに、マルコヴィッチが当時のドロンの妻であったナタリー・ドロンと不倫関係にあったことが判明[注 1]。このため、捜査当局は翌69年1月にドロンと親しい関係であったマフィアのマルカントーニを実行犯として逮捕。更にドロンを重要参考人として召喚する。しかし、捜査の過程で前の首相で同年の大統領選の有力候補であったジョルジュ・ポンピドゥーの名前まで出てきたことから事態は混迷を極め、マンカントーニは釈放されドロンは不起訴となり捜査はいったん中止となる。ポンピドゥーは同年6月に大統領選に勝利した。その後、70年4月にはドロンが大統領に就任したポンピドゥー宛に公開嘆願状を出すなど抵抗をつづけ、結局容疑者不詳のまま迷宮入りとなった[9]。
エピソード
1963年4月1日から10日にかけて第3回「フランス映画祭」が東京都千代田区の東商ホールで開催された。ジャン=ガブリエル・アルビコッコの『金色の眼の女』と『アメリカのねずみ』、『突然炎のごとく』『ミス・アメリカ パリを駆ける』『シベールの日曜日』『女はコワイです』『不滅の女』『地下室のメロディー』『地獄の決死隊』の計9本の長編と、短編映画『ふくろうの川』が上映された[10]。ドロン、アレクサンドラ・スチュワルト、フランソワ・トリュフォー、マリー・ラフォレ、セルジュ・ブールギニョン、アルベール・ラモリス、フランソワーズ・ブリオンらは映画祭に参加するため3月28日に来日した[11][12][13]。ドロンは初来日であった。
1963年4月と1964年6月、フジテレビ『スター千一夜』に出演。同6月13日にはNHK『夢であいましょう』に出演。映像は現存しないが、司会を務めたデザイナーの中嶋弘子と番組セット内で撮ったカラー写真が現存する。
1980年代には、パリ旅行のメインとしてドロンと一緒のディナーを楽しめるという団体ツアーも企画され、日本から50,000名が参加し大きな話題を呈した。2010年には生誕75周年を記念して、「アラン・ドロン生誕75周年記念映画祭」が東京や京都で開催された[14]。
日本では美男俳優の代名詞と言えるほど人気の高い二枚目スターであるが、娯楽大作中心ではなく、社会派やアート志向の作品も多い出演歴でわかるように、フランスや欧米諸国では大衆的な二枚目スターとは異なる評価を受けている。
1987年、モロッコでの15年間の投獄の末、脱走したマリカ・ウフキルは逃走中に自分たちの事実を伝えるため政治家やアーティストに20通ばかりの手紙を送ったが、返事があったのはアラン・ドロンただ一人だった。モロッコと関係のあるアラン・ドロンは弁護士を通じて「政治的立場をとるつもりはないが、ウフキルたちに友情を伝えてくれと言い、物資面の援助や裁判費用も払う用意がある」と伝え、ウフキルはこの厚意に心底感動したと語っている。
1993年、スイスで行われた女優オードリー・ヘプバーンの葬儀に参列。それまで交流があったことは一切報じられておらず、また、日本では長年人気投票の外国男優・外国女優部門の1位を獲得してきた人気俳優同士だった。彼は「僕は彼女を尊敬していた」と交流を語った。
1964年東京オリンピックのメインスタジアム(新宿区霞ヶ丘町)の落成式に出席し併せて国立代々木競技場を訪問した。また東京モノレールの開業前に昭和島車両基地を訪れ、そこで試運転車両に乗車した[15]。
ドロンと岸田森は、映画『友よ静かに死ね』の来日イベントで共演している[16]。