アラブの春
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期間2010年12月18日 - 2012年12月
行動反政府デモ

アラブの春(アラブのはる、英語: Arab Spring)とは、2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称である。2010年12月18日に始まったチュニジアジャスミン革命から、アラブ世界に波及した。また、現政権に対する抗議・デモ活動はその他の地域にも広がりを見せており、アラブの春の事象の一部に含む場合がある。各国におけるデモは2013年に入っても続いた。なお、“Arab Spring”という言葉自体は2005年前後から一部で使用されていたものである[27][28][29][30]。しかし、ほとんどの国で混乱や内戦が泥沼に陥り、強権的な軍政権に戻ったり、ISILのような過激派組織が台頭したりするなど、いわゆる「アラブの冬」として挫折を見せている[31][32]
概要

中東地域は、世界の原油天然ガスの産出・埋蔵量の多くを持ち、アラブ世界の中のユダヤ核保有国と目されるイスラエル、世界の大動脈スエズ運河を抱えるエジプト、シーア派の大国のイランイラク戦争から再建中のイラク、アラブ諸国とも欧米とも対立した独自路線を掲げるカダフィ大佐のリビア、石油の富が公平に分配されていない湾岸諸国、対立が続くスンナ派シーア派などを抱えていた。

幾多の戦争が起きた地域であり、情勢が不安定であったこの地域だが、2011年にチュニジアエジプトなど30年以上の長期独裁政治が、数か月足らずの間に相次ぐ民衆のデモ活動で揺らぐことになった。世界経済が不調のなか、もともとエジプトの騒乱では小麦価格の高騰による貧困層の困窮や、若年失業率(多いところでは5割)の大きさが原因としてあげられている。逆に革命を引っ張っているのは、まだ少数ながら教育を受け経済力を持ち、情報手段を持つ「中間層」である。

これらの革命の背景にはソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の役割も大きいとされる。衛星放送[注 1]インターネットの普及で情報は瞬時に伝わり[注 2]携帯電話ツイッターフェイスブックなどで抗議活動に関する呼びかけなどが行われた。CIAジョージ・ソロスと関連付ける説もある[33]

さらにイスラム教の合同礼拝(国民的宗教行事のため禁止は不可能)のため合法的に人が集まり、情報や人々の感情などが直接伝わることも革命を後押しするのに功を奏した。さまざまな情報に加えて、政権側によるデモの弾圧などで犠牲となった死者の棺は大通りを練り歩き、治安部隊などの行動は周知されることとなった。
事件の発端

2010年12月17日チュニジア中部シディ・ブジド(英語版)(スィディ・ブーズィード)にて失業中だった26歳の男性モハメド・ブアジジ(ムハンマド・ブーアズィーズィー)[34]アラビア語:???? ?????????)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして警察が商品を没収。これに抗議するためにガソリン(もしくはシンナー)をかぶり火をつけ、焼身自殺を図った。チュニジアでは失業率が公表されている14%よりも高く、青年層に限れば25?30%という高い水準に達しており、同様に街頭で果物や野菜を売り生計を立てる失業者も多かった[34][35]。このトラブルがブアジジと同じく、大学卒業後も就職できない若者中心に、職の権利発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、全国各地でストライキやデモを起こすきっかけになったとされている[36][37]。次第にデモが全年齢層に拡大し、デモ隊と政府当局による衝突で死亡者が出るなどの事態となった[36]。やがて高い失業率に抗議するデモは、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなり、急速に発展していった[34]。その後、チュニジアの政権は崩壊した。
広範囲へ拡大

チュニジアでの一連の出来事(ジャスミン革命)は、瞬く間にアラブ諸国へ伝わった。

ヨルダンでも早い段階で反政府運動が飛び火し、サミール・リファーイー内閣が2011年2月1日に総辞職。

エジプトでは1月25日より大規模な反政府抗議運動が発生、これにより30年以上にわたるホスニー・ムバーラク大統領下による長期政権が崩壊した(2011年エジプト革命)。

立憲君主国バーレーンでも反政府運動が計画され、政府は給付金を全世帯に給付するなど対処したようにみえたが、首都マナーマ真珠広場で行われた中規模反政府集会を政府動員の治安部隊が強制排除し、死者が出る事態となった(2011年バーレーン騒乱)。

カダフィ大佐による独裁体制が敷かれているリビアでも、カダフィの退陣を要求するデモが2月17日に発生。2月20日には首都トリポリに拡大し放送局や公的機関事務所が襲撃・占拠され、軍はデモ参加者に無差別攻撃を開始し多数の犠牲者が出た。政府側はサハラ以南のアフリカから多額の時給で民兵を雇用し、反政府派も施政権が及ばなくなったとされる東部や南部を武器をとり掌握するなど勢力を拡大、首都での戦いが避けられないという見方が報道によりなされた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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