「アラバマ」の語源は分かっているが、その意味については諸説あって定まっていない。『ジャクソンビル・レパブリカン』紙の1842年の記事では、その意味を「ここで休む」とする説を発表した[7]。この説は1850年代にアレクサンダー・ボーフォート・ミークの著作を通じて広まった[7]。マスコギー語の専門家はこの説を肯定する証拠を見出すことができなかった[4][7]。学者はこの言葉がチョクトー語の alba(植物あるいは雑草を意味する)と、amo(切る、整えるあるいは集めるを意味する)を合わせたと考えている[6][7][11]。その意味は「藪を切りはらう人」[6]または「香草を集める人」[11][12]である可能性があり、農作のために土地を開墾すること[8]、あるいは薬草を集めることを指していると考えられる[12]。「アラバマ」はアメリカ合衆国内に数多いアメリカ先住民の言葉に由来する地名の1つである[13][14]。
なお、アメリカ合衆国の全50の州を名前のアルファベット順に並べたときに、最初に来る州である。
歴史詳細は「アラバマ州の歴史」を参照
先コロンブス期ヘイル郡のマウンドビル考古学遺跡。ミシシッピ文化のインディアンが西暦1000年から1450年にかけて使っていた
アラバマ州となった地域にヨーロッパ人が入ってくる以前の数千年間、様々な文化を持つインディアンがこの地域に住んでいた。現在のアメリカ合衆国北東部との交易は、オハイオ川を通じて墳墓期(紀元前1000年から紀元後700年)に始まり、ヨーロッパ人と接触した時まで続いた[15]。
西暦1060年から1600年、農耕社会のミシシッピ文化が現在の州の大半に及び、その中心の1つがマウンドビルのマウンドビル考古学遺跡にあった[16][17]。マウンドビルで行われた考古学発掘調査で出土した人工物を解析することで、南東部儀式用複合施設の性格に関わる学説の基礎ができてきた[18]。一般に考えられていることとは対照的に、南東部儀式用複合施設はメソアメリカ文化と直接の結びつきが無く、独自の発展を遂げていたと見られている。儀式用複合施設はミシシッピ文化の人々の宗教では主要な要素だった。その宗教を理解するうえで主要手段の1つになっている[19]。
ヨーロッパ人が入って来たときに、現在のアラバマ州領域に住んでいたインディアン部族として、イロコイ語を話すチェロキー族、マスコギー語を話すアラバマ族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族、コアサティ族がいた[20]。
ヨーロッパ諸国による植民地化1725年のフランスの地図、モービルの位置にコンデ砦の平面図と標高が示されている
1702年、フランスが現在オールド・モービルと呼ばれる地域にヨーロッパ人として最初の開拓地を築いた[21]。モービルの町は1711年に現在地に移転した。この地域は1702年から1763年がフランス、1763年から1783年がイギリスの西フロリダの支配下にあり、1783年から1821年はアメリカ合衆国とスペインの間で分割された。イギリス王政に忠誠を誓うロイヤリストだったトマス・バセットが、モービル地域を除けば地域内初期の白人開拓者だった。1770年代初期に現在のワシントン郡となったトンビグビー開拓地に入った[22]。1783年、現在のボールドウィン郡とモービル郡の領域がスペイン領西フロリダの一部となり、1810年には独立国西フロリダ共和国の一部、1812年にミシシッピ準州に付設された。現在のアラバマ州北部と中央部およびミシシッピ州は、当時ヤズーランドと呼ばれ、1767年以降ジョージア植民地が領有権を主張していた。アメリカ独立戦争の後、ジョージア州に編入されたが、その領有については大きな論争が続いた[23]。ミシシッピ準州とアラバマ準州の形成
モービルやヤズーランドに隣接する地域を除き、現在のアラバマ州中央部は、1798年に創設されたミシシッピ準州の一部になった。ヤズーランド詐欺が起きた後、ヤズーランドも1804年に準州に付加された。1812年以後スペインはモービルに行政機能を置いていた。1814年、アンドリュー・ジャクソンの軍隊がモービルを占領し、この地域に対するアメリカ合衆国の「事実上の」権限を示した。これで準州奥地からメキシコ湾まで支障のない通路ができ、モービルにおけるスペインの実効支配を終わらせたが、領有権主張は残り続けた[24]。ミシシッピ州が州に昇格する1817年12月10日の前に、人口の少なかった準州東半分が分離し、アラバマ準州と命名された。アラバマ準州は1817年3月3日のアメリカ合衆国議会で創設された。セントスティーブンスが1817年から1819年まで準州都とされていたが、現在は廃村になっている[25]。
アラバマ州成立の初期タスカルーサのキャピトル公園にある議会議事堂廃墟。ウィリアム・ニコルズが設計し、1827年から1829年に建設された。州都がモンゴメリーに移されてから10年以上経った1857年にアラバマ中央女子カレッジになった。1923年の火事で破壊された
アラバマが合衆国22番目の州になることが認められた後、アメリカ合衆国議会は最初のアラバマ州憲法制定会議の場所にハンツビルを選定した。1819年7月5日から8月2日に代議員が会して新州憲法を準備した。ハンツビルは1819年から1820年までアラバマ暫定州都となり、その後はダラス郡のカハバに州都が移された[26]。カハバは現在廃村となっているが、1820年から1825年まで最初の恒久的州都だった[27]。アラバマが州になった時は既にアラバマ・フィーバーが広がり始めており、綿花の栽培に適した肥沃な台地を得るために開拓者や土地投機家が殺到していた[28][29][30]。1820年代から1830年代の開拓地にあって、州憲法は白人男性については普通選挙を執行していた。綿花のプランテーションが広がるに連れて、南東部農園主や交易業者がアッパーサウスから奴隷と共に移ってきた。