アラスカは1867年3月30日にロシア帝国からアメリカ合衆国が買収した。その後幾つかの管理形態の変遷を経て、1912年5月11日にアラスカ準州、1959年1月3日にアラスカ州となった。
家庭で話される言語(アラスカ州) 2010[4]
英語 83.9%
エスキモー・アレウト語族 4.61%
スペイン語 3.49%
タガログ語 2.39%
人種構成(アラスカ州) 2010 「アラスカ」の名は、ロシア植民地時代に既に使われていたが、アラスカ半島のみを指していた。アレウト族の言葉で「半島」を意味する Alakshak(アラクシャク)[5]、あるいは「本土」、より語義的には「海の動きが向けられている対象」を意味する alaxsxaq [6]から取られた。アレウト語の同じ語源から派生した「認められた土地」を意味する "Alyeska" という説も知られる。 最終氷期では海面は低下し、ベーリング海峡にはベーリンジアという平原が広がっていた。ユーラシア大陸を東進してきた人類は、まずインディアンが次いでエスキモーが回廊を通り、アラスカに到達した。[要出典] 有史以前、アラスカはエスキモーとインディアンの土地であった。エスキモーは北極海沿岸を中心に海洋動物の狩猟が中心の生活、インディアンは内陸部にてヘラジカ(ムース)やカリブーなどの狩猟が中心の生活をそれぞれ一万年以上続けてきたとみられている。 近代に入ると、北部ユーラシア大陸を東進してきたロシア帝国がアラスカに到達した。1648年、ロシアの探検家セミョン・デジニョフ(Semyon Dezhnev)がベーリング海峡上の島、ダイオミード諸島に到着した最初のヨーロッパ人である[7]。しかしデジニョフの航海は18世紀まで忘れられており、1728年8月16日にヴィトゥス・ベーリングが再発見・命名したとされる。再発見した8月16日はロシア正教会がタルソスの聖ディオメデスを祝う日であり、これにちなみ現在の名となった。またロシアの測地学者ミハイル・グヴォーズデフ(Mikhail Gvozdev)がダイオミード島の位置を地図に記した(別名のグヴォーズデフ諸島の名はこれにちなむ)。 1799年に露米会社が勅許を受けたことによりロシア領アメリカが成立。1804年、シトカの戦い。19世紀前半にロシアは植民を行い、露米会社がアザラシなど海洋動物の毛皮を採集していたが、運送費がかさむこと、乱獲による海洋動物の激減により毛皮事業がなりたたなくなっていた。 なお、アラスカはかつてロシア領だったために正教徒の割合が他州に比べて高く、現地語のうちの幾つかがロシア人宣教師によってはじめて文字化された。[要出典] クリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のため、1867年にクリミア戦争の中立国であったアメリカ合衆国に720万ドル(1km2あたり5ドル)で売却された(アラスカ購入)。この交渉をまとめたのは国務長官であったウィリアム・H・スワードである。このことは当時のアメリカ国民から「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたが、その後豊富な資源が見つかったり、アラスカが(主に旧ソ連に対する)国防上重要な役割を果たすことが分かり、現在では高く評価されている。
白人 64.1%
インディアン・アラスカ先住民 14.8%
ヒスパニック 5.5%
アジア系 5.4%
黒人 3.3%
先住ハワイ人・太平洋諸島系 1.0%
混血 7.3%
州名の由来
歴史伝統的な祭の晴れ着で踊るアルティイク族詳細は「アラスカの歴史」を参照
近代詳細は「ロシアによるアメリカ大陸の植民地化」を参照
ロシア時代詳細は「日露関係史」を参照
アメリカ時代
アラスカ県詳細は「アラスカ県」を参照