最終氷期では海面は低下し、ベーリング海峡にはベーリンジアという平原が広がっていた。ユーラシア大陸を東進してきた人類は、まずインディアンが次いでエスキモーが回廊を通り、アラスカに到達した。[要出典]
有史以前、アラスカはエスキモーとインディアンの土地であった。エスキモーは北極海沿岸を中心に海洋動物の狩猟が中心の生活、インディアンは内陸部にてヘラジカ(ムース)やカリブーなどの狩猟が中心の生活をそれぞれ一万年以上続けてきたとみられている。
近代詳細は「ロシアによるアメリカ大陸の植民地化」を参照
近代に入ると、北部ユーラシア大陸を東進してきたロシア帝国がアラスカに到達した。1648年、ロシアの探検家セミョン・デジニョフ(Semyon Dezhnev)がベーリング海峡上の島、ダイオミード諸島に到着した最初のヨーロッパ人である[7]。しかしデジニョフの航海は18世紀まで忘れられており、1728年8月16日にヴィトゥス・ベーリングが再発見・命名したとされる。再発見した8月16日はロシア正教会がタルソスの聖ディオメデスを祝う日であり、これにちなみ現在の名となった。またロシアの測地学者ミハイル・グヴォーズデフ(Mikhail Gvozdev)がダイオミード島の位置を地図に記した(別名のグヴォーズデフ諸島の名はこれにちなむ)。
ロシア時代詳細は「日露関係史」を参照
1799年に露米会社が勅許を受けたことによりロシア領アメリカが成立。1804年、シトカの戦い。19世紀前半にロシアは植民を行い、露米会社がアザラシなど海洋動物の毛皮を採集していたが、運送費がかさむこと、乱獲による海洋動物の激減により毛皮事業がなりたたなくなっていた。
なお、アラスカはかつてロシア領だったために正教徒の割合が他州に比べて高く、現地語のうちの幾つかがロシア人宣教師によってはじめて文字化された。[要出典]
アメリカ時代
アラスカ県詳細は「アラスカ県」を参照
クリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のため、1867年にクリミア戦争の中立国であったアメリカ合衆国に720万ドル(1km2あたり5ドル)で売却された(アラスカ購入)。この交渉をまとめたのは国務長官であったウィリアム・H・スワードである。このことは当時のアメリカ国民から「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたが、その後豊富な資源が見つかったり、アラスカが(主に旧ソ連に対する)国防上重要な役割を果たすことが分かり、現在では高く評価されている。
アラスカ地区詳細は「アラスカ地区」および「クロンダイク・ゴールドラッシュ」を参照
1896年カナダのユーコン準州で金が発見された[8]。その後、アラスカのノームやジュノー、フェアバンクスでも金鉱が発見され、アラスカのゴールドラッシュが始まり、何万人もの金探鉱者がアラスカとカナダのユーコン準州に集まった。フェアバンクスなどはこの時代に町としての形をなした。フランク安田の生涯を描いた『アラスカ物語』はこの時代を舞台としている。
アラスカ準州アッツ島の戦いで雪や氷と戦うアメリカ軍兵士、1943年5月詳細は「アラスカ準州」を参照
1941年からアメリカも参戦した第二次世界大戦中には、州内の島しょ部が日本軍に占領されたほか、ダッチハーバーにあるアメリカ海軍の基地が日本海軍機の空襲を受けた。 1959年、アメリカの49番目の州に昇格した。1950年代の東西冷戦の時代には、アラスカを水爆実験場にしようという計画が持ち上がったが、自然保護運動の高まりの中、中止に至った。
アラスカ州