アメリカ連合国
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CSAの経済は農業、特に奴隷労働を使ったプランテーションに依存していた。CSAの主要産品は綿花コメタバコサトウキビであり、ほか牧畜がいくらかと多くの穀物生産があった。

CSAを構成した南部諸州(ミズーリとケンタッキーを除く)は1860年に1億5500万ドルの工業製品を生産したが、これは合衆国全体の10%程度に過ぎなかった。主な製品は小麦粉コーンミール(ひき割りとうもろこし)、木材、加工したタバコ、綿製品、テレピン油であった。武器・弾薬製造においても、南部は合衆国全体の数パーセントしか生産せず、圧倒的不利にあった。

一方、南部は英仏などヨーロッパの工業国に対する綿花貿易により、合衆国の輸出総額の70%を占めていた。開戦前、南部の産品の75%が北部やヨーロッパに移出されていた。CSAはここに堅い経済基盤があると信じ、自由貿易政策を採ったが、合衆国による経済封鎖によって機能しなかった。十分な金融資産を持たなかったことが、戦費を紙幣乱造によってまかなうこととなり、激しいインフレーションにつながった。

南北戦争の結果、南部の農業基盤や交通などのインフラは激しく破壊され、20世紀に入るまで南部諸州の経済は場所によっては南北戦争以前の規模に戻らなかった。
軍事

CSA軍は以下の三軍で構成されていた。

アメリカ連合国陸軍 Confederate States Army

アメリカ連合国海軍 Confederate States Navy

アメリカ連合国海兵隊 Confederate States Marine Corps

CSAの軍事指導者は、ほぼ全員が、開戦前に合衆国陸軍および合衆国海軍の職を辞してCSA軍の高位職に就いた元合衆国軍人で占められていた。士官はほとんどが南部のジェントリ(貴族的な農場主)たちで構成され、尉官(junior officers)や佐官(field grade officers)は兵隊たちからの立候補で選出した。CSA軍には独自の士官学校などは存在しなかったが、南部の多くのカレッジ(例えばVirginia Military Institute:ヴァージニア軍事大学、ヴァージニア士官学校とも)は戦場に立つ多くの軍人を供給した。海軍兵学校は1863年ジェームズ川に浮かぶCSA海軍軍艦パトリック・ヘンリーの艦上で発足したが、CSA崩壊までの間に卒業生を出すことができなかった。

陸軍の兵隊は平均年齢16歳から28歳の間の白人男子で構成されていた。南北戦争の末期にいたり、12歳以上の少年も兵士として戦闘にあて、さらにCSA軍に志願した黒人奴隷に自由を与えるという奴隷制堅持という立場からすればある意味本末転倒な法案[注 2]を可決させ、全員黒人の連隊も発足させた。しかし、北部に比べてその導入はあまりに遅すぎ[注 3]、戦力として有効に活用できたのは限られたケースのみだったと伝えられる。
連合の軍指導者「アメリカ連合国陸軍の将軍」も参照

ロバート・E・リー(バージニア州) - 陸軍大将

アルバート・シドニー・ジョンストン(ケンタッキー州) - 陸軍大将

ジョーゼフ・E・ジョンストン(バージニア州) - 陸軍大将

ブラクストン・ブラッグ(ノースカロライナ州) - 陸軍大将

P・G・T・ボーリガード(ルイジアナ州) - 陸軍大将

ジェームス・ロングストリート(サウスカロライナ州) - 陸軍中将

ストーンウォール・ジャクソン(バージニア州) - 陸軍中将

A・P・ヒル(バージニア州) - 陸軍中将

ジョン・ベル・フッド(テキサス州) - 陸軍中将

ウェイド・ハンプトン(サウスカロライナ州) - 陸軍中将

ネイサン・ベッドフォード・フォレスト(テネシー州) - 陸軍中将

ジェブ・スチュアート(バージニア州) - 陸軍少将

エドワード・ポーター・アレクサンダー(ジョージア州) - 陸軍准将

フランクリン・ブキャナン(メリーランド州) - 海軍大将

ラファエル・シームズ(メリーランド州) - 海軍少将

ジョサイア・タットノール(ジョージア州) - 海軍准将

スタンド・ワティー(インディアン特別保護区、現オクラホマ州) - 陸軍大将

レオニダス・ポーク(テネシー州、ルイジアナ州) - 司教、陸軍中将

ジュバル・アーリー(バージニア州) - 陸軍中将

地理および構成諸州

アメリカ連合国は北アメリカ大陸の南部に位置し、温暖な冬季と長くて蒸し暑い夏季のある湿潤な亜熱帯気候であった。

CSA領内は北部と比べて都市化が進んでおらず、CSAの範囲はほとんどが農村であった。人口1,000人を越える町も少なく、郡庁所在地も多くは人口500人以下であった。1860年国勢調査で合衆国の10大都市に入ったのは唯一ニューオーリンズ(1862年、北軍により占領)だけだった。また100大都市に入った南部の街はわずか13しかなく、その多くは合衆国による封鎖で経済が行き詰まった。CSA首都リッチモンドは首都が置かれて以降人口が増えたものの、1864年の推計で人口は12万8000人しかなかった。CSA自体の人口も4百万の奴隷人口を含めてやっと1千3百万程度であり、北部の2千2百万とは大きな隔たりがあった。

州名合衆国脱退連合加盟合衆国再加入地方自治の再建
サウスカロライナ州1860年12月20日1861年2月4日1868年7月9日1876年11月28日
ミシシッピ州1861年1月9日1861年2月4日1870年2月23日1876年1月4日
フロリダ州1861年1月10日1861年2月4日1868年6月25日1877年1月2日
アラバマ州1861年1月11日1861年2月4日1868年7月14日1874年11月16日
ジョージア州1861年1月19日1861年2月4日1870年7月15日1871年11月1日
ルイジアナ州1861年1月26日1861年2月4日1868年6月25日
もしくは1868年7月9日1877年1月2日
テキサス州1861年2月1日1861年3月2日1870年3月30日1873年1月14日
バージニア州1861年4月17日1861年5月7日1870年1月26日1869年10月5日
アーカンソー州1861年5月6日1861年5月18日1868年6月22日1874年11月10日
テネシー州1861年5月6日1861年5月16日1866年7月24日1869年10月4日


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