アメリカ連合国陸軍
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なお、いわゆるアッパーサウスの4州(テネシー州アーカンソー州ノースカロライナ州バージニア州)は奴隷制を採用していたが、連合国には参加せず合衆国に残っていた。しかしリンカーンの派兵要請が行われるに至り、これら4州は要請を拒否すると共に合衆国離脱を宣言し、連合国に参加した[1]。サムター要塞陥落とアッパーサウスの離脱後、共にその主力を義勇兵に頼っていた合衆国と連合国の両陸軍は、各々の目的を果たす為に急速な軍拡に乗り出した。
連合国陸軍の成立と軍制エドウィン・フランシス・ジェミソン(英語版)二等兵。彼の写真は南北両軍の若い兵士の間で特に有名な肖像写真となった。

連合国議会は連合国陸軍の軍制を制定するに当たり、合衆国陸軍のそれを模倣した。これによれば、連合国陸軍は有事に編成される大規模な暫定軍と、平時から編成される小規模な常備軍によって構成されていた。開戦直前の1861年2月28日、連合国議会では義勇兵から成る暫定軍の編成が可決され、また一週間後の3月6日に常備軍の設置が可決された。これら2つの陸軍は制度上共に存在していたものの、常備軍の規模は非常に小さかった。

連合国暫定軍(Provisional Army of the Confederate States, PACS)は1861年2月28日に連合国議会の承認を受け、4月27日から編成が始まった。士官から徴用兵まで、ほとんどの連合国陸軍将兵は暫定軍への所属を好んだ。これは常備軍よりも暫定軍の方が昇進しやすかった為である。仮に内戦に勝利した場合、暫定軍は解散され、常備軍のみが連合国陸軍として残される予定だった[2]

アメリカ連合国陸軍(Army of the Confederate States of America, ACSA)は、連合国の常備軍であり、1861年3月6日に連合国議会が承認した。将校744名を含む15,015人を定員と定めていたが、これが達成されることは最後までなかった。サミュエル・クーパーやロバート・E・リーなどの高級将校は、全ての義勇兵将校よりも高位である事を示すべく常備軍に名を置いていた。一部の将校の任命や選考以外に目立った活動が行われなかった為、常備軍はほとんど机上のみに存在する軍隊であった。後に3州の連隊に対して連合国連隊("Confederate" regiments)の称号が与えられたが、結局連合軍の組織化には繋がらず、それら連合国連隊自体も決して戦力的に満たされたものではなかった。

アメリカ連合国の陸海軍および海兵隊の将兵は、しばしば単にConfederates やConfederate soldiers と総称された。また、連合国陸軍の補助組織たる州民兵(State Militias)も設置されていた。これは連合国政府の主導で設置されており、合衆国が1792年民兵法(英語版)に基づき設置した民兵と同等の組織と見なされた。

陸軍の設置に先立つ1861年2月21日、連合国陸軍の運用および指揮を担当する省庁たる連合国陸軍省(Confederate States War Department)の設置に関する法案が連合国臨時議会にて可決している。1861年2月28日と3月6日、連合国議会は軍事上作戦上の指揮権限および各州の常備軍・義勇軍将兵の招集に関する権限を連合国大統領に付与した。これに続いて3月8日にはデイヴィス大統領に100,000名以下の国民を招集する権限を認める法案が連合国議会にて可決した[3]。これに基づく要請を受けた連合国陸軍省では、3月9日に8,000名、4月8日に20,000名、4月16日に49,000名の義勇兵を招集した。4月29日、デイヴィスは議会にて陸軍の規模を100,000名程度と定める提案を行なっている[4]

1861年8月8日に合衆国が反逆鎮圧の開始を宣言した後[5]、連合国では3年をかけて400,000名の義勇兵を招集した。1862年4月、連合国議会にて徴兵法が可決して連合国陸軍にも徴集兵が入隊しはじめた。さらに連合国議会では何度か徴兵対象年齢の範囲を広げ、連合国国民を総動員する事を計画した。この改正案は先立って5つの州最高裁判所(state supreme courts)で議論され、5つともで賛成を得ている[6]
組織連合国陸軍が使用したM1857ナポレオン砲

1865年にリッチモンドの中央記録保管所が破壊された事に加え、当時の各種文書の保管環境が劣悪であった事から、連合国軍の規模を正確に示しうる記録はほぼ全てが失われている。連合国陸軍の総兵力は500,000名から2,000,000名の間を推移したとされる。連合国陸軍省が残した年次記録では、1861年に326,768名、1862年に449,439名、1863年に464,646名、1864年に400,787名と規模が記録され、最終報告では358,692名とされていた。南北戦争を通じての累計動員数は1,227,890名から1,406,180名程度と考えられている[7]

また、公的な招集は次のような規模で行われた。

1861年3月6日:義勇兵および民兵100,000名。

1862年1月23日:義勇兵および民兵400,000名。

1862年4月16日(第一次徴兵法の可決):暫定軍将兵として18歳から35歳の白人男性を徴兵[8]

1862年9月27日(第二次徴兵法の可決):徴兵対象年齢を18歳から45歳に拡大[9]。1863年7月15日から施行。

1864年2月17日(第三次徴兵法の可決):徴兵対象年齢を17歳から50歳に拡大[10]

1864年3月13日:黒人300,000名の徴兵が認められるが、実際には一部の徴兵のみに終わった[11]

当初の連合国陸軍は防衛を主眼に置いた組織であり、リー将軍率いる北バージニア軍のアンティータム戦線北部攻撃は多くの軍人から反発があったという。
指揮系統ロバート・E・リー将軍詳細は「アメリカ連合国陸軍の将軍」を参照

連合国陸軍は南北戦争末期まで、総司令官や最高司令官といった役職を正式に設けていなかった。連合国大統領のジェファーソン・デイヴィスは最高司令官(commander-in-chief)たる肩書きと権限を付与され、連合国陸海軍の戦略的な指導を行なった。なお、彼は元合衆国陸軍士官で、合衆国陸軍長官を務めた事もあった。以下の人物も連合国陸軍において指導者的立場にあった。

ロバート・E・リー将軍は、1862年5月13日から5月31日にかけて、連合国陸軍の軍事作戦遂行に関する諸決定の全権を担っていた。彼の公的な肩書きは大統領付の軍事顧問(military adviser)だったが実際には陸軍の戦術・戦略に関する各種決定に関して広い権限を持っており、その職務および権限は現在のアメリカ陸軍参謀総長に相当するものと見なされている。6月1日、連合国の野戦軍のうち最も重要な部隊であった北バージニア軍の指揮を引き継いだ。また1865年1月23日には議会により総司令官(General-in-Chief)に指名され、1月31日から1865年4月9日までこの職を務めた。


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