アメリカ連合国の国旗
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自分の案が国旗に選ばれると、トンプソンは自分の新聞で、「この旗は、我々の戦う理由である『優秀な人種と高度な文明が、無知や野蛮と戦う』ということをよく表している。同時に、今や悪名高いヤンキーの野蛮人の旗とまったく似ていないことも利点である」と自賛する記事を掲載している。

この旗の初使用は、トマス・J「ストーンウォール」ジャクソン将軍の葬儀の際に棺を覆う旗だったために、「ストーンウォール・ジャクソンの旗」とも呼ばれる。

しかしこれにも欠点があった。戦場の泥で汚れやすいうえに、戦場に風が吹いていない場合、旗が垂れ下がると南軍旗部分が隠されて白い部分が多くなりすぎるこのデザインは、降伏の白旗とよく見間違えられたのである[8]。当初は好意的に迎えられたこの国旗も、主に軍人たちから「白すぎる」という批判が上がるようになった。
二回目の国旗制定時に提案された旗

1862年提案の旗

1863年提案の旗

1863年提案の旗

三番目の国旗『Blood Stained Banner』? 三番目の国旗

三番目の国旗『ブラッド・ステインド・バナー』(血染めの旗)は1865年3月4日、連合国崩壊の寸前に制定されごく短期間使用された。付け加えられた赤い垂直の条は、旗がなびいていないときに白旗と間違われないためのものである。縦横比は3:4。この旗の提案者であるアーサー・L・ロジャース少佐は、二番目の国旗は戦場で危険であるとして、議会で国旗改定を訴えるロビー活動を行った。ロジャースは、垂直の条を赤くしたのは、「ヤンキーの旗」の青と似た部分を最大限減らすためであり、同時に南軍旗部分のX型十字(セント・アンドリューズ・クロス)はスコットランド国旗に、付け加わった赤い条はフランス国旗に由来し、それぞれ南部の人々の祖先の地を表すとしている[8]

アメリカ連合国議会が定めた1865年の国旗法によれば、「幅は長さの3分の2で、正方形のユニオン(南軍旗)を旗の幅の5分の3になるように配し、ユニオンの横の余った部分の長さを、ユニオンの下の余った部分の幅の2倍にするようにする。ユニオンは赤地に青のX型を配し白でふちどり、その上に連合国を構成する州の数を表す5つの先端のある星型を飾る。旗全体の地は白で、ユニオンの残りの長さの半分を幅いっぱいの赤に塗る」、とされている[9](連合についた州は11州だったが、ミズーリ州ケンタッキー州の反対党派が連合に合流したため、13州とされることもある。南軍旗の星の数は13である)。しかし国旗法の通過から、国旗の大量生産までの間に連合国は戦いに敗れて崩壊し、人々が三番目の国旗を目にすることはほとんどなかった[9]


? 1861年3月4日?1861年5月21日? 1861年5月21日?1861年7月2日? 1861年7月2日?1861年11月28日

? 1861年11月28日?1863年5月1日? 1863年5月1日?1865年3月4日? 1865年3月4日?1865年5月26日

その他の旗?ボニー・ブルー・フラッグ

国旗のほかに、様々な旗が南北戦争中に使用された。有名なものでは、1810年スペイン領フロリダの植民者が反乱し西フロリダ共和国を建国したときに作られた青地に白星の『ボニー・ブルー・フラッグ』が非公式の旗として、また南部の抵抗の象徴として南北戦争初期の1861年の数ヶ月間使われている。
南軍旗『Battle Flag』?バトル・フラッグ

アメリカ連合国陸軍軍旗(南軍旗とも呼ばれる)『バトル・フラッグ』は正方形で、部隊によって様々なサイズのものがある。歩兵隊は48インチ角、 砲兵隊は36インチ角、騎兵隊は30インチ角である。この旗は1861年11月から降伏までの間、戦闘時に用いられた。南軍旗のX型十字の青は、海軍旗の明るい青とは違い、濃紺を使っている。最初の国旗であった『スターズ・アンド・バーズ』は、戦闘時の硝煙と土煙の中では星条旗と見分けがつかなかったため、友軍への誤射など深刻な軍事上の失敗を引き起こした。これを直すため、バージニア陸軍大将P・G・T・ボーリガード達はより良いデザインを探し、ボーリガードはウィリアム・ポーチャー・マイルズ(後述)のデザインを旗に採用した。マイルズの長方形のデザインは、戦場で巻いて持ち運びやすいように正方形に直された。この旗は、歴史家にはバージニア戦線で北部のポトマック軍と激戦を演じたロバート・E・リー大将率いる北バージニア軍の軍旗としてもよく知られている。

この旗はあまりにも有名となったため、1863年以降の二番目の国旗のデザインのもととなった。マイルズの長方形の旗よりも、この旗の正方形の方がより堂々として独特であるとして好む者も多い。
海軍旗、別名『レベル・フラッグ (Rebel Flag)』?レベル・フラッグ?レベル・フラッグ

アメリカ連合国海軍の旗はサザンクロスとも呼ばれ、南軍旗の長方形版であり、普通5フィート×3フィート(縦横比3:5)である。対角線を結ぶX字型の青は南軍旗よりも明るい青である。連合の海軍艦船に1863年から1865年までの間、翻っていた。なおこの旗は停泊中の艦首旗竿に掲揚される艦首旗(船首旗、jack)であり、停泊中および航海中の艦尾に掲揚される軍艦旗 (naval ensign) ではない。

デザインはもともとサウスカロライナ州の下院議員ウィリアム・ポーチャー・マイルズが、アメリカ連合国が最初の国旗を制定する際に提出した案だった。しかし連合政府はズボンつりのサスペンダーのようだとしてこれを採用しなかった。このデザインはその後、前述のとおりテネシー陸軍ほかいくつかの陸軍部隊が軍旗として利用し、やがて南軍の陸軍全体の旗のデザインに流用されることになる。長方形のオリジナルデザインはその後、海軍が1863年から使用することになった。?1861年から1863年までの海軍旗

時にこのX字型が聖アンデレ十字 (Saint Andrew's Cross) とみなされることがある。しかしマイルズの提案がこれについて何も語っていないため、聖アンデレ十字を南部に結びつける本来の意図があったのかどうかは不明である。聖アンデレ十字はスコットランドの国旗(青地に白十字)であり、ロシア海軍軍艦旗(白地に青十字)でもある。聖アンデレはX字型の十字架にかけられて殉教した十二使徒の1人で、スコットランドロシア双方の守護聖人でもある。中世の伝説では、そのX字型の十字架がスコットランドの海岸に打ち上げられたという。南北戦争時の南部白人の多くがイギリス出身であったが、19世紀にはその白人のうち4分の3がスコットランド人かアルスター・スコッツ(北アイルランドに移住したスコットランド人)の末裔だったという説もある。そこから、スコットランドのシンボルである聖アンデレ十字が南部のシンボルとしてよりよく受け入れられたという見方もある。


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