アメリカ軍によるドミニカ共和国占領_(1965年-1966年)
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アメリカ合衆国大使はこれを拒否した。この拒否に当惑しきったモリナ・ウレーニャはその暫定大統領の地位をカーマニョ大佐に譲った。サンイシドロではロイヤリストの将軍たちが空軍大佐ペドロ・バルトロメ・ベノイトを、新しいロイヤリスト政府の首長に選定した。

4月28日、ドミニカ空軍がサントドミンゴの反乱軍陣地、および警察署を占領して即座に警官を処刑していた武装反乱市民に対する空爆を開始した。この内乱の開始時点で3万人いたドミニカの兵士、空軍兵、および警官の中で、ウェッシン将軍は2,400人に満たない兵士と僅か200人の国家警察を支配下においているだけだった。

当初、アメリカ軍の動きは、サントドミンゴ市から市民を避難させるアメリカ海兵隊の動きに限られていた。サントドミンゴ西郊外地にあるエンバハダー・ホテルに上陸地帯が確保されていた。

ロイヤリストはサントドミンゴの再確保に失敗し、武装軍訓練センターの部隊はオザマ川東岸のサンイシドロにある基地に撤退した。ウェッシン将軍と、退任させられた政府の首班レイド・カブラル(「アメリカ人」とも呼ばれた)の双方がアメリカの介入を要請した。
占領サントドミンゴ占領中のアメリカ軍および全米平和軍の本部および医療サービス本部:
1. アメリカ軍本部;
2. 全米平和軍本部;
3. 第307医療大隊D中隊、マリア・オーヒリアドラ大学;
4. C中隊、治療後送所;
5. 第15野戦病院;
6. C中隊、キャンプ・ランドール5月初旬にサントドミンゴ近くで協議する医療部隊士官、正面右が海兵隊第15野戦病院指揮官ウィリアム・L・リチャードソン中佐、左が第82空挺師団軍医クィットマン・W・ジョーンズ少佐ドミニカ共和国に到着した全米平和軍ホンジュラス兵アメリカ軍の侵攻を報じたユニバーサル・ニュース映画

アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンはロイヤリストの敗北を確信し、アメリカの玄関前に「第2のキューバ」[4] ができることを恐れ、アメリカ軍の秩序の回復を命じた。ドミニカ共和国に軍事介入を行うことはジョンソンの個人的判断だった。文民顧問の全てが、ロイヤリストが内戦を終わらせられることを期待して、即座の介入には反対していた。

ジョンソンは、ドミニカの軍事指導者の効率の無さと決断力の無さを指摘したサントドミンゴに居る大使、W・タプリー・ベネットの助言を容れた。ベネットは反乱軍と暫定政府の間にアメリカが介入することで、内戦を終わらせる効果があると助言していた。この時アメリカ合衆国は米州機構に敵対する勢力間の政治的解決を交渉するよう求めることができた。アメリカ陸軍参謀総長ウィーラーはパーマー将軍に「公表できない貴方の任務は、ドミニカ共和国が共産主義者の手に落ちるのを防ぐことだ」と伝えた[5]。名目上は外国人の命を守るとしていたが、外国人はまだ誰も殺されも負傷してもいなかった。41隻の艦艇からなる艦隊が島の封鎖に派遣され、4月29日、アメリカ海兵隊とアメリカ陸軍第82空挺師団の部隊によって侵略が開始された。また第7特殊任務部隊群E中隊の約75名も参加した。最終的には42,000名の兵士と海兵がドミニカ共和国に派遣された。

立憲派軍が侵攻に抵抗した。4月29日午後半ばまでにローマ教皇大使の提案する休戦が交渉されていた。.5月5日、サントドミンゴ法にベノイト大佐(ロイヤリスト)、カーマニョ大佐(立憲派)および米州機構特別委員会が署名した。この法は全体の休戦、国際安全保障地帯の認知、救援機関を支援する合意、外交使節団の不可侵を規定していた。この法は後の交渉の枠組みを決めたが、戦闘全てを止められなかった。立憲派の狙撃手がアメリカ軍に対する狙撃を続けたが、ドミニカ両派の間の戦闘は暫く中断された。

立憲派は軍事的な勝利を得られなかったので、直ぐに立憲派議会を開き、大統領にカーマニョを選出した。アメリカ合衆国当局はインベルト将軍を後押しすることで応じた。5月7日、インベルトは全国再建政府の大統領に就任した。ワシントンD.C.と米州機構が描いていた安定化方策の次のステップは、カーマニョ大統領とインベルト大統領の間で、暫定政府を構築し早期に選挙を行う合意を形成することだった。しかし、カーマニョは、ウェッシンを含むロイヤリストの士官たち数人がこの国を立ち去るまで、インベルトに会うことを拒否した。

5月13日、インベルト将軍が一掃作戦を開始し、その部隊はシウダード・ヌエバ郊外の反乱軍拠点を排除し、ラジオ・サントドミンゴの放送を停止させることに成功した。一掃作戦は5月21日に終わった。安全回廊

5月14日までに、サンイシドロ空軍基地とデュアルテ橋を繋ぎ、エンバハダー・ホテルとサントドミンゴ市中心部のアメリカ大使館を繋いだ「安全回廊」を確立したアメリカ軍は、実質的にサントドミンゴ市内の立憲派地域を封鎖した。道路が封鎖され、パトロールが継続して行われた。各国から来ていた約6,500人が安全に避難した。さらにドミニカ国民のためにアメリカ軍が大量の救援物資を空輸した。

5月半ばまでに、米州機構は「推進作戦」の実行を票決し、アメリカ軍を削減し、平和維持を目的とした米州平和軍によるその代替を行うこととした。米州平和軍は5月23日に正式に発足した。ブラジルからは兵士1,130名、ホンジュラスから同250名、パラグアイから同184名、ニカラグアから同160名、コスタリカから憲兵21名、エルサルバドルから参謀3名が派遣された。最初に到着した部隊はホンジュラスからのライフル中隊であり、間もなくコスタリカ、エルサルバドル、ニカラグアからの部隊が続いた。ブラジルが最大の部隊である強化歩兵大隊を派遣した。ブラジルのユーゴ・アルビム将軍が米州機構地上部隊の指揮を執り、5月26日にはアメリカ軍が撤退を始めた。
休戦

戦闘は8月31日まで続いたが、この日に休戦が宣言された。警察と平和維持活動はブラジル軍に引き渡されたので、アメリカ軍の大半はそれから間もなく引き上げたが、その作戦本部と第82空挺師団第1旅団は残り、1966年8月まで駐屯していた。この旅団の1個大隊が引き上げたのは1966年9月だった。

特にサンティアゴ・デ・ロス・カバリェロスにあるホテル・マトゥムへの攻撃など、打ち続く不穏と攻撃に直面していたカーマニョは、アメリカ合衆国政府に突き付けられた調停案に合意した。ドミニカ暫定大統領ガルシア・ゴドイがカーマニョ大佐をイギリスへのドミニカ大使付武官として派遣した。

1966年、元大統領ホアキン・バラゲールが、大統領選挙でフアン・ボッシュを破って当選した。これにはジョンソン政権からの公然の支援があった。ボッシュが権力に返り咲くことは無かった。バラゲールは当初から抑圧的だが高度に政治的に巧みな統治を行って、比較的安定した時代となり、その政権は22年間続くことになった。
被害
軍人

アメリカ兵は44名が死亡し、その内27名が戦死した。負傷者は172名だった
[6]

米州平和軍ではブラジル兵6名とパラグアイ兵5名が戦闘で負傷した[6]

関連項目

ドミニカ共和国の歴史

脚注^ Washington Center of Foreign Political Research, National Support of International Peacekeeping and Peace Observation operations (Washington, D.C.: Johns Hopkins University, Feb 70), pp. 289-313.
^ Eckhardt, William, in World Military and Social Expenditures 1987-88 (12th ed., 1987) by Ruth Leger Sivard.
^ Draper, Theodore: "The Dominican Crisis", Commentary magazine Vol. 40, No. 6, December 1965
^ Stephen G. Rabe, "The Johnson Doctrine", Presidential Studies Quarterly 36
^ “Foreign Relations of the United States, 1964?1968 Volume XXXII, Dominican Republic; Cuba; Haiti; Guyana, Document 43”. US Dept. of State. 2011年4月26日閲覧。
^ a bThe US Intervention in the Dominican Republic, 1965

参考文献.mw-parser-output .refbegin{margin-bottom:0.5em}.mw-parser-output .refbegin-hanging-indents>ul{margin-left:0}.mw-parser-output .refbegin-hanging-indents>ul>li{margin-left:0;padding-left:3.2em;text-indent:-3.2em}.mw-parser-output .refbegin-hanging-indents ul,.mw-parser-output .refbegin-hanging-indents ul li{list-style:none}@media(max-width:720px){.mw-parser-output .refbegin-hanging-indents>ul>li{padding-left:1.6em;text-indent:-1.6em}}.mw-parser-output .refbegin-100{font-size:100%}.mw-parser-output .refbegin-columns{margin-top:0.3em}.mw-parser-output .refbegin-columns ul{margin-top:0}.mw-parser-output .refbegin-columns li{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}

McPherson, Darrell G.. ⇒
The Role of the Army Medical Service in the Dominican Republic. Washington, D.C.: Office of the Surgeon General, Department of the Army. ⇒http://www.history.army.mil/books/contingency/domrep/index.htm  - full text

Warnock, A. Timothy. Dominican Crisis: Operation POWER PACK. Short of War: Major USA Contingency Operations edited by A. Timothy Warnock. Air Force History and Museums Program, 2000. pp 63?74.

外部リンク

82nd Airborne History Page - Operation Power Pack: A "Road" Test for the 82nd Airborne Division

Dominican Republic PSYOP, reportage from SGM Herbert A. Friedman (ret)

STAFF FILM REPORT 66-17A (1966) - インターネット・アーカイブ

STAFF FILM REPORT 66-18A (1966) - インターネット・アーカイブ


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