アメリカ独立戦争
[Wikipedia|▼Menu]
なお、日本の歴史教科書では、イギリスと同じく「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば[2]、単に「独立戦争」と表記することもある[3]

この戦争によって植民地の住民はイギリスの支配を拒否し、アメリカ合衆国(United States)を政治的独立に導くことに成功した。1775年革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治立法を担当する第二次大陸会議軍事を担当する大陸軍を発足させた。

翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。

アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年には、フランス王国がアメリカ側に付いて参戦した。 スペイン帝国ネーデルラント連邦共和国(オランダ)も、その後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年フランス海軍チェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国派遣軍は1781年ヨークタウンの戦いイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。

1783年のパリ条約で戦争が終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に認めた。独立の社会的背景や影響については「アメリカ合衆国の独立」を、
外交については「アメリカ独立戦争における外交」を、
海上戦については「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」を、
情報戦については「アメリカ独立戦争の情報戦略」を参照
植民地課税問題

アメリカ植民地が独立への道を歩み始めたそもそものきっかけはイギリス本国による課税の強化にあり、それはフレンチ・インディアン戦争1754年 - 1763年)による財政危機の解消を目的としたものであった。イギリス政府は1764年に砂糖法、1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。

1767年イギリス本国議会タウンゼンド諸法を制定して植民地へ新たに税を課そうと試みると、またも反対運動が盛り上がり、1770年にタウンゼンド関税も撤廃させられた。だが、このときに対する課税は廃止されず、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。

1773年茶法によってイギリス東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が乱入し、積載されていた茶を海に投棄した(ボストン茶会事件)。

そうした中で1774年に、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を実行した。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地と和解するよう働きかけた。しかし、首相フレデリック・ノース国王ジョージ3世の強い意志を背景に、植民地に強硬な態度で臨む決意だった。

一連のイギリス側の政策に対し、13植民地は対策協議のために大陸会議を開いてイギリス本国との和解の道を探ったが、打開できないままであった。

ノースカロライナでは1764年から1771年まで、世直し家らが民衆の支持を得てしばしば蜂起し、民兵隊をもって反乱指導者を処刑しようとする支配者層に対する世直しの戦争に突入した。
1778年までの戦闘員
軍隊、民兵、および傭兵

戦争が始まった当初は、アメリカには職業的な陸軍海軍も無く、各植民地には地元の民兵部隊が存在するのみで、これが自らの地域防衛にあたっていた。独立戦争前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。開戦時、一部を除いてこの民兵隊のほぼ全てがアメリカ大陸軍に加わった。民兵の装備は簡単なものであり、ほとんど訓練されておらず、通常の制服も無かった。当時は、民兵の従軍期間は数週間から数か月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらなかったので、通常、大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが数では勝り、レキシントン・コンコードの戦いベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、大陸軍はイギリス軍正規兵がいない地域で効果的に王党派の活動を抑えた[4][5][6]イギリス軍に従軍したドイツ人傭兵。ヘシアンと呼ばれた。

1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を(紙の上で)設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。大陸軍が成長を続ける中で、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。1775年10月13日、大陸会議が大陸海軍のための艦船建造に承認を与えられたことによりアメリカ海軍が発足し、この時4隻の武装船の購入および艤装が認められた。アメリカ海兵隊の前身である大陸海兵隊1775年11月10日の大陸会議の決議により結成され、フィラデルフィアのタン酒場を最初の本拠にした。

1783年の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争を通じ、延べ約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、どの期間においても武装した兵士は9万人を越える事は無かった。大陸陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多い時でも17,000名足らずであった。これは、戦術的選択の結果であったが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった側面も存在した[注釈 2][注釈 3]

1775年の初期、イギリス陸軍は世界で36,000名ほどいたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらに、アメリカ独立戦争のときは、ドイツ諸侯から約30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くはヘッセン=カッセル方伯領から来ていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセン人と呼ばれた。この軍隊は主君に雇われた職業軍人という意味での傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、兵力はカナダからフロリダまで分散した形になっていた[7][8]。「アメリカ独立戦争におけるドイツ」も参照
アフリカ系アメリカ人および先住民族

アフリカ系アメリカ人は、解放された元奴隷も奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。

イギリス軍は積極的に、愛国者を主人に持つ奴隷を徴募した。

大陸軍側においても、1776年1月に、人員不足解消のため総司令官ジョージ・ワシントンは奴隷徴募の禁止令を撤廃した。ロードアイランドマサチューセッツでは、小さいながらも全て黒人の部隊が編制された。また、フランス軍と共にハイチから全て黒人の部隊が参戦した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:202 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef