アメリカ独立戦争におけるドイツ
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この条約では、兵士の給与が2ヶ月前払いで、ドイツの通貨ターラーで支払われることとされ、兵士は全てジョージ3世に忠誠を誓うことが要求された[16]

カール1世はイギリスに、フリードリヒ・バウム中佐の下に4,000名の歩兵と350名の重竜騎兵(馬を持たない[17])を提供し、全軍指揮はフリードリヒ・アドルフ・リーデゼル将軍に執らせた。これらの部隊は、1777年のサラトガ方面作戦でジョン・バーゴイン将軍の下に就いたドイツ正規軍の大半であり、一般に「ブランズウィッカー」(Brunswickers)と呼ばれた[18]。ブラウンシュヴァイクとヘッセ=ハーナウの複合部隊でバーゴイン軍の半数近くを占め[19]、ブランズウィッカーは特に良く訓練されていることで知られた[20]。リーデゼルの妻フレデリカが夫に同行して日記を付けており、これがサラトガ方面作戦の重要な一次史料となった。バーゴインの降伏の後、2,431名のブランズウィッカーが終戦まで協議の軍隊として拘束されたままだった[21]

ブラウンシュヴァイクは総計5,723名の兵士を北アメリカに送り、そのうち3,015名は1783年秋にドイツに戻らなかった[7][22]。戦死や脱走による損失もあったが、多くのブランズウィッカーは協約軍 (Convention Army) として滞在する間にアメリカ人と親しくなり、戦争が終わるとアメリカの議会や上官からアメリカに留まる許可を得た[8]。協約軍として軍務を放棄する機会を得た者の数は多く、ペンシルベニア東部のドイツ人開拓者の2倍に及んだ[23]。カール1世はアメリカで戦死した兵士全員についてイギリスから補償を受け取ったので、脱走兵が可能な限り死者として報告されることが利益に叶っていた[22]。ブラウンシュヴァイク公はアメリカに留まった、あるいは戻った兵士にも6ヶ月分の給与を支払った[24]
アンスバッハ=バイロイト辺境伯

カール・アレクサンダー辺境伯の治めるアンスバッハバイロイトは、当初2個歩兵大隊、1個猟兵中隊および1個砲兵中隊からなる1644名の兵士を提供し、461名を失った。戦争が終わるまでに最大2353名が派遣された[25]。これらの部隊はニューヨークハウ将軍の軍隊に組み入れられ、フィラデルフィア方面作戦の一翼を担った[26]。アンスバッハ=バイロイトの部隊は、ヨークタウンの包囲戦の際、チャールズ・コーンウォリス将軍の下に1100名近い部隊が就いていた[27][28]

アンスバッハ=バイロイトの連隊はオクゼンフルトで起こった反乱で記憶されている。兵士たちはマイン川の船に乗せられていたが、ヴュルツブルク司教が開放を拒んだ橋を渡ることはできなかった。1777年3月8日朝、何人かのアンスバッハ兵が川岸に辿り着くことができ、他の船を陸にたぐり寄せた。士官たちはその不安を伝えようとしたが、何人かの兵士が脱走した。兵士の脱走を防ぐために追撃兵が付けられ、威嚇射撃をすると反乱兵が反撃した。辺境伯は暴動の報せを受けると即座に馬に跨り、夜を徹してオクゼンフルトに駆けつけた。辺境伯は兵士たちに再度乗船するよう説得し、マインツまで同行して、選帝侯マインツ大司教)の同意なしに橋を開放させることに成功した。

アンスバッハ=バイロイト辺境伯は戦争が始まった時は大きな負債を抱えており、その兵士を使わせる代償として10万ポンド以上を受け取った[25]。終戦後間もない1791年、辺境伯はアンスバッハ=バイロイトをプロイセン王国に売却し、プロイセンから年金を受けてイングランドで余生を送った[29]
ヴァルデック侯

ヴァルデック侯国は1775年4月25日にイギリスを支援する条約を締結したが、これはレキシントン・コンコードの戦い(ちょうど1週間前)に関する報せがヨーロッパに届く前のことだった[9]。フリードリヒ・カール・アウグスト侯子は、海外で雇用されて従軍可能な3個連隊を持っていた。684名の将兵からなる最初の連隊は1776年7月にポーツマスを出港し、ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦に参戦した[30]。この作戦の間、ヴァルデック連隊はアメリカのチャールズ・リー将軍の所有するワインと蒸留酒を捕獲したが、イギリス軍のハウ将軍が路傍でそれらの瓶を空にさせたときには苦い思いをした[31]

ヴァルデック部隊はヘッセンのヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン将軍の下でドイツ補助隊に統合された。ヴァルデックは1,225名を派遣し、720名を失った。
ハノーファー選帝侯

ハノーファー選帝侯は他でもないイギリス国王ジョージ3世であり、その4個大隊がまずジブラルタルに派遣されて、そこで包囲されていたイギリス軍を解放し、その後にアメリカで戦うために派遣されることとされていた[9]。これはジョージ3世の命令ではなかったが、イギリス議会とハノーファーとの間で承認された条約の一部であり、イギリスは戦時の費用を払うこととドイツの同盟国を保護することに同意していた[32]
アンハルト=ツェルプスト侯

アンハルト=ツェルプスト侯フリードリヒ・アウグストは1777年にイギリスに1,160名の部隊を供する条約を締結した。5ヶ月のうちに900名の新兵を徴募して、2個大隊からなる1個連隊が起ち上げられた[33]。600名ないし700名の1個大隊が1778年5月にカナダケベック市に到着した[34]。この他にオーストリア帝国内のスラヴ人から徴募した非正規兵であるパンドゥール兵約500名からなる部隊が、1780年にイギリス軍の占領するニューヨーク市に派遣された。しかし、当時の証言ではパンドゥールと表現されていたが、これらの部隊が正規軍軽歩兵隊としての機能を果たせたかどうかは大いに議論のあるところである。
アメリカの同盟者
ドイツ系アメリカ人

イギリス人植民者によってバージニアジェームズタウン開拓地が設立されてから間もなく、そのイギリス植民地へのドイツ人移民が始まった。1690年、ドイツ人植民者は北アメリカで初めての抄紙工場を建設し、イギリスよりも早くアメリカで聖書が印刷された。18世紀半ばまで、植民地アメリカの人口の10%はドイツ語を話していた[35]フレンチ・インディアン戦争の間、イギリスは北アメリカにいる多くのドイツ人移民を使ってロイヤル・アメリカ連隊を結成したが、徴兵された者は基本的にドイツ人移民だった[36]


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