アメリカ海兵隊
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将校上院による任命制で、兵の任期は3年であった。

再建時に海兵軍楽隊が組織され、1801年1月1日に第2代アメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズの求めに応じて大統領府における演奏会を行って以来、大統領の面前で演奏できる唯一の軍楽隊としての栄誉を与えられた。

海兵隊の将校および下士官に帯刀が義務付けられたが、再建時点で制式化された刀剣はなく下士官は陸軍と同じ物を使用していたとされる。1826年には士官向けにマムルーク刀(英語版)風の新形軍刀が採用された。現在でも海兵隊士官はこれに類似した軍刀を使用している。下士官用として1859年に採用されたアメリカ海兵隊下士官刀は、アメリカ全軍の装備としては最も古くに採用され、最も配備期間が長いものである。

アメリカ海兵隊構成員は俗に “Leather Necks”(レザーネックス)と呼ばれるが、これはこの再建時に士官・兵士を問わず共通して支給された唯一の装備である、刃物から首を守る防具も兼ねた黒い皮革製のカラー(襟)に由来する。現代の軍服はスーツ型の開襟ジャケットが主流であるにもかかわらず、アメリカ海兵隊の礼装であるブルードレスが立襟なのもこの伝統に由来する。現代では蔑称であるジャーヘッドよりはマイナスイメージが少ない呼び方であり、海兵隊協会の雑誌『レザーネック・マガジン(英語版)』や海兵隊員の交流サイト “Leatherneck.com” など多くのメディアで使われている。
海賊退治、米墨戦争、第一次世界大戦

アメリカ海兵隊の海外派遣は、地中海の自由航行権をめぐるトラブルからオスマン帝国の独立採算州であるバーバリ諸国との間で発生した第一次バーバリ戦争1801年-05年)が初めてで、この時は、1804年アレクサンドリアに上陸したプレスリー・N・オバノン中尉の率いる部隊が、1805年4月27日トリポリの要塞を占領[注 4] したことにより、勝利を確定的なものにし、拿捕された自国艦の乗組員の身代金6万ドルを支払ったものの、今後はアメリカ合衆国船籍の船の航行を妨害しないことを約束させることに成功した。

米墨戦争では陸軍に先んじて宮殿を占領するなどの活躍を見せたほか[注 5]第一次世界大戦では兵力も増強され、士官4000人、兵7万5000人となり、アメリカ合衆国欧州派遣軍の一部としてフランスのベロー・ウッドで逃げ腰のフランス軍に代わってドイツ軍と激戦を繰り広げ、崩れかけた体勢を立て直してドイツ軍を撃退し、その他にも地上戦において戦果を挙げている。

しかし、これらの海兵隊の勇敢な戦果の数々は、結局は陸軍と区別がつけられるものではなく、同じ地上戦を所管する陸軍からは「戦果を横取りされた」として敵視されたあげくに予算の配分を巡って争う始末であり、海兵隊不要論はアメリカ軍部内に燻りつづけて、ときおり火を吹いていた。

1910年代から1930年代の戦間期の海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、人員も大体、士官1000人、兵2万人で推移して、海兵隊総司令官も少将から中将になった。

この頃になると水兵の気質も昔に比べて穏やかになり、白兵戦が生起することも無くなって、海兵隊を海軍艦内に常駐させる必要性は薄れていた。艦内での海兵隊の役割は海軍水兵のものと区別がつかなくなっており、当然、指揮系統上も海軍と対立が起きていたので、海兵隊はアメリカ国内外の海軍基地の警備、海外緊急派遣という新たな任務が与えられた。

1903年に締結されたパナマ運河条約によって、アメリカ合衆国がパナマから「パナマ運河地帯」と呼ばれるパナマ運河の中心から両側5マイルの地域を租借し、海兵隊がその警備を割り当てられると、数個大隊を集めてパナマへ派遣するための連隊が例外的に編成された。この時代の海兵隊の組織は基本的に中隊であり、総兵員も19世紀で士官は100人以下、兵が1000?2000人、20世紀初頭で士官200人台、兵1万人弱程度であった。それでも海兵隊不要論者からは「アメリカ軍が獲得した前進基地を防衛する任務は、海兵隊では能力不足だ」として攻撃されていた。

海兵隊はこの当時、中米カリブ海諸国ハイチドミニカ共和国パナマメキシコニカラグアなどに派遣されていたが(バナナ戦争)、1927年にニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦すると1933年に撤退した。ニカラグアから撤退すると、フランクリン・ルーズベルト大統領は善隣政策を導入し、他の中米諸国からも撤退させた。

海兵隊は、設立当初から組織としてのアイデンティティや独自の存在価値を問われ続けて平時には常に規模が縮小され、議会などでも海兵隊の維持経費は「無駄な経費」と罵倒され、解体されて海軍や陸軍に吸収される危機に何度もさらされていた。このような状況にもかかわらず、海兵隊が解散しなかったのは、他国の海兵隊のように陸海軍の傘下として設置したのではなく、1798年の再建時に海兵隊を陸海軍と並列の立場で別に設置することを法律で定めたことに端を発しており、議会の決議で法律を制定して設置した以上、アメリカ軍部内の独自判断では解散させることができず、解散についても議会の決議が必要であったためであり、議会に海兵隊擁護論者がいたためであった。

そのような逆境下において、アメリカ合衆国と同じ連合国として第一次世界大戦に参戦した日本が赤道以北のドイツ領ニューギニア各諸島を占領し、大戦後はヴェルサイユ条約によって正式に日本の委任統治領とされたことに伴い、米西戦争で獲得した西太平洋におけるフィリピングアム海外領土や中国での各種権益を持つアメリカにとって、わずか半世紀と少し前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が急速に発展膨張し、中部太平洋に割り込む形で旧ドイツ領ニューギニア地域にまで進出してきたことは、脅威となり始めていた。


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