アメリカ横断ウルトラクイズ
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番組初期(1977年(昭和52年)-1985年(昭和60年))は、日本国外へ脱出できた挑戦者の大半が海外旅行初体験であったが、番組開始年の1977年には年間315万人強だった日本人の海外旅行者数が、番組末期の1990年代には番組開始時の3倍を超える年間1000万人超となり[9]、時代の変化とともに海外旅行が庶民にも比較的容易に手に入る娯楽となったことで、相対的に挑戦者たちの驚きの価値は下がっていった[10]

とはいえ番組中期以降(1986年(昭和61年)-1992年(平成4年))は、通常の海外旅行では行くことが困難な場所をルートとして選択するようになり、スケールを維持した。「突撃○×どろんこクイズ」や「バラマキクイズ」などの定番クイズと共に、第5回以降アメリカ合衆国以外の国にも上陸し、第9回ではアメリカ大陸を経てパリで決勝、第10回ではアメリカ南北ルートの選択、第12回では北南米大縦断、第13回ではオーストラリアニュージーランド、第14回ではタヒチもルートに加えアメリカ大陸上陸後、かつてアメリカ西部開拓団が通ったオレゴン街道を全ルートバス移動で遡るなど、演出面でさまざまな工夫を凝らした。

初回から番組名には「史上最大!」とうたっており、第1回は応募総数4,188名に対し実際の参加者は404名という、当時のクイズ番組の予選としてはかなり大規模であった。当初の第一次予選会場の後楽園球場でも1塁側スタンドの一角で行っていた(その収録日は、王貞治が756号ホームラン世界新記録を達成したその翌日である9月4日の巨人対ヤクルトの試合開始前であった)が、回を重ねるごとに参加者は増え続け、1983年(昭和58年)の第7回では初めて1万名を、1988年(昭和63年)の第12回では2万名を突破した。

しかし莫大な制作費に加え、第7回をピークに視聴率が徐々に下落していったことなどの問題により、1992年(平成4年)の第16回の放送を最後にレギュラー開催の終了が決定した[11]

その後1998年(平成10年)に、日本テレビ開局45年記念番組として単発で復活。“今世紀最後”と題されたこの回は「第17回」とは称されず、ウルトラクイズのスペシャル版という意味合いが強かった[12]。この大会では年齢制限を撤廃し、過去最多の50,453名が参加。応募総数は7万名を超え、実に2万名を超える人々が第一次予選会場の東京ドームに入ることができなかった。これ以降も番組の復活が何度か検討されたことがあるが、2001年アメリカ同時多発テロ事件以降国際情勢が大きく変化したこともあり、実現には至っていない。
番組の特徴

本番組の影響を受けた番組も多数生まれた(番組がもたらした影響を参照)。しかし、大人数を日本国外に集めてクイズを行う形式を踏襲した例はごく少ない。他の放送局は真似しようにも、どうしても出国手続だけで1日費やしてしまい、できなかったのである。

そのノウハウとは、近畿日本ツーリストのウルトラクイズ担当者によると、「成田(第1回のみ羽田)空港行きが決まった人全員分の決勝地までのチケット取得と出国手続きをジャンケン前に完全に済ませておき、ジャンケンに負けた人の分をその場でキャンセルする」という手法であった[13]

これは成田だけではなく、チケットは全員分決勝地まで用意しており、敗者が出るたびにキャンセルし[13][14]、その差額分は引換券にして払い戻していた[13]。またチケットは決勝地までのものだけではなく各チェックポイントから成田(東京)行きのものも、誰が敗者になるかわからないので全て仮名で取り、クイズ終了後に全て実名に変更するという方法をとっていた(#ハプニング・トラブル節の「テロによる日程変更(“今世紀最後”)」の項も参照)[15]。なお、誰が敗者になるか大体予想がついた場合は、次の目的地のホテルで結果が出る前に、その人の名前を外してみたところ、その通りの結果になったことがあった[13]

日本テレビのきちんとした主旨の説明、旅行代理店側の腕、航空会社や空港スタッフによる、番組の主旨への理解と寛大な協力が必要であった(最初の頃は、先方の通常の業務を超えていたこともあって、嫌な顔をされたこともあったが、ウルトラクイズのことが知れ渡ると「あの番組のことだから」と、徐々に理解を示されるようになっていった[13])。番組の画的にも、時の運に翻弄される一喜一憂の表情が濃く現れることになった。
独自の演出

タイトルは「クイズ」であっても、単にクイズの優勝者「クイズ王」を決めるためだけの番組ではなく、普通の人々が突然アメリカなどの広大な自然や冒険・難局に直面したときの表情、挑戦者同士の触れ合いなど、人間ドラマを色濃く描かれた演出が特徴的であった。番組の主眼は挑戦者の人間模様、クイズに敗れた敗者にあり、「クイズ形式の人間ドキュメンタリー」というコンセプトがあった。そのため、クイズパートではいったん収録が始まってカメラが回り出すと、敗者が決まるまで撮影は中断しない。これは撮影を中断することによって挑戦者が“素”の状態に戻ることが考えられるためにこれを避けているためだという[16]

番組で共に旅したのを機に、挑戦者同士がその後も何らかの形で交流を続けるようになったケースも多く、挑戦者同士が結婚したケースもある。

各クイズ後、勝者と敗者はすぐ引き離される[17] ため、クイズを行う時は挑戦者は必ず自分の荷物を傍らに運び込んでおく必要があった。これは、あくまで旅の途上との演出も兼ね備えていた。勝者が敗者の行う敗者復活や罰ゲームなどと鉢合わせしないよう、観光という形で隔離することもあった。

各チェックポイントにおいて、失格またはドクターストップ以外の挑戦者本人の意思による、自主的なリタイアは認められていない(ウルトラクイズ参加規定に明記されている。第7回では急病(尿管結石)による医師の診断のため、挑戦者1名がカナダでリタイアとなった)。

基本的に挑戦者はいつクイズを行うかは直前まで知らされず、たとえクイズの合間の観光に見えても、自分の荷物を持たされている限りいつクイズが始まるかわからない状態であった[18]

風光明媚な土地などでは、挑戦者を驚かせるため、クイズ会場までアイマスクをしたまま移動させることもあった。このようなシビアな条件が極限状況を生み出し、挑戦者同士の連帯感を生む要素ともなった[19]。機材の撤収や敗者への罰ゲームの収録を行う関係もあり、クイズの収録は午前中に行われることが多かったという。また、1日で複数のチェックポイントでのクイズの収録を行うこともあった[20]

福留功男は番組当初から、挑戦者の人間模様にも焦点を当てるために、恋人や婚約者の名前、家族構成や勤務先[21] などといったプライベートなことを聞き出し、番組の中で効果的に披露していた。

優勝賞品はインパクト重視で、優勝賞品発表時の言葉から発せられるイメージと実物を見た瞬間のギャップが一つの見せ場となっていた。価値は100万円相当のものから無料同然のものまで年によってまちまちであり、実体も風変わりなものばかりであった。これは番組放送期間を含む1971年から1996年まで、オープン懸賞の上限が100万円に制限されていたことに加え、番組では東京からニューヨークまでの旅費も景品相当と解釈されていたためである。しかしながら比較的まともな賞品が進呈されたこともあり、「世界一周旅行」など日常では経験できないような賞品が用意されたり、優勝したニューヨークに家族を呼び寄せ高級ホテルに宿泊する権利が賞品となったこともある。なお、本クイズの優勝者に与えられるのは賞品のみで賞金は一切出なかった。

回やチェックポイントによっては、勝者と敗者復活者などで食事などのランクに格差がつけられた場合もあった[22]
開催・放送

1977年昭和52年)の第1回大会から1992年平成4年)の第16回大会までと、1998年(平成10年)に行われた“今世紀最後”大会をあわせて全17回が開催された。

このほか、特別版として1982年(昭和57年)に『ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦』が日本国内で開催された。
開催地各回のルート図

各回毎に、グァムからニューヨークまでのルートは異なっているのが特徴である。

予選以外では、アメリカ横断ウルトラクイズのタイトル通りにアメリカ大陸を東廻りに横断するのが基本的なスタイルであることから、主な舞台であるアメリカ合衆国のほか、第4回ではプエルトリコ自治連邦区、第5回以降はメキシコカナダバハマイギリスフランス(本国および仏領ポリネシア)、ボリビアブラジルアルゼンチンオーストラリアニュージーランドドミニカ共和国と、第6回の第2CP(チェックポイント)の敗者復活戦と第10回の第1CPが日本(成田空港での搭乗時に出題されたクイズ)の合計15か国と1地域でクイズが実施された。


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