1837年、青年ナサニエル・ホーソーン(1804年 - 1864年)が、『二度語られた話』(Twice-Told Tales[17])として象徴主義でオカルト的事件が豊富なその作品を集めた。ホーソーンは長編の「恋愛小説」として寓話風な小説を書くようになり、罪、誇りおよび生まれ故郷のニューイングランドにおける感情的抑圧といった主題を開拓した。その傑作『緋文字』(The Scarlet Letter[18]、1850年)は、姦通を犯し不義の子を産んだことでその地域社会から迫害される女性の過酷なドラマである。
ホーソーンの小説はその友人であるハーマン・メルヴィル(1819年 - 1891年)に大きな影響を与えた。メルヴィルはその船乗り時代の経験を風変わりでセンセーショナルな海洋説話小説に変えることでその名前を残した。メルヴィルはホーソーンの主題である寓話や暗い心理描写に影響を受けて、淡々たる思索の豊富なロマンを書くようになった。『白鯨』(Moby-Dick[19])では、冒険的捕鯨の旅が強迫観念、悪の性質、および原理に対する人間の戦いというような主題を掘り下げる舞台になった。他にも短編の傑作『ビリー・バッド』(Billy Budd[20]、1924年の死後出版)では、戦時の艦船上における義務と同情心の葛藤をドラマ化した。メルヴィルの豊富な作品は存命中にほとんど売れず、死後も暫くは忘れられた存在だった。死後30年を経た1921年に再評価の動きがおこった。
メルヴィル、ホーソーンおよびポーによる反超絶主義的作品は当時の文学界の小ジャンル、暗黒ロマン主義を構成するものである。
アメリカの近代文学の初期においては、プロットが強いが日常的な描写が貧しい男性作家たちの小説と、プロットが弱いが日常的な描写に優れた女性作家による小説という特徴が見られた[21]。アメリカ文学者の平石貴樹は、女性作家たちの「プロット」に対する不信の背後には、「人生を一貫した計画や冒険などの展開とみなす、近代的自我の人生観[注釈 1]そのものを、アメリカン・ドリームに支配された男性たちの『勝手な夢』(少なくとも、社会参加のままならない自分たちには『無縁な夢』)としてしりぞける思想、あるいは情緒が、ひそんでいたとも考えられる。」と評し[注釈 2]、男女の社会的立場の差と、プロットの強弱との関係を指摘している[21]。
アメリカの詩詳細は「アメリカ合衆国の詩」を参照ウォルト・ホイットマン、1856年
19世紀アメリカの二人の偉大な詩人は気質もスタイルもほとんど異なったものと言うことができる。ウォルト・ホイットマン(1819年 - 1892年)は、労働者、漂泊者、南北戦争では志願看護士であり、詩の革新者だった。その代表作『草の葉』(Leaves of Grass[23])は、不規則な長さをもつ自由に流れる行でできており、アメリカ的民主主義の全的包括性を表している。この主題を一歩進め、自分勝手にならずに幅広いアメリカ人の体験を自身のものと同一視している。例えば、『草の葉』の中心で長い詩、『ぼく自身の歌』(Song of Myself[24])では、「あらゆる年齢とあらゆる土地の全ての人は私にとって新しいものではないという思想が実際にある」と書いている。
ホイットマンはまた自分で「電気の身体」と呼んだように肉体の詩人でもあった。イギリスの小説家D・H・ローレンスはその『アメリカ文学古典の研究』の中で、ホイットマンは「精神の男が肉体の男よりも幾らか「優れて」「上に」あるという古い道徳観に最初に打撃を与えた」と記した。若かりし日のエミリー・ディキンソン。1846年か1847年
一方、エミリー・ディキンソン(1830年 - 1886年)は、マサチューセッツ州の小さな町アマーストで上品な未婚の女性として、保護された人生を送った。その詩は形式的構造の中で独創的で機知に富み、優美に練り上げられ、心理的な洞察力がある。その作品は当時としては型破りであり、生前はほとんど出版されることも無かった。
ディキンソンの詩の多くは意地の悪いひねりを伴う死について論じている。