「帝国」とは本来は、複数のより小さな国や民族などを含めた広大な領域を統治する国家のこと[3]で、帝政つまり元首が皇帝・君主であるとは限らない。古代ローマ帝国も、初期においては必ずしも皇帝位は世襲であるとは限らず、各地の群雄が皇帝として乱立(もしくは帝位を僭称)していた軍人皇帝時代であっても、帝国の体制はかろうじて維持されている。
1898年の米西戦争では、アメリカ合衆国はフィリピン・グアム・プエルトリコを獲得し、キューバを保護領とした。戦争前にはスペインの劣悪な原住民支配を批判し、世論も戦争に賛成したが、獲得後は逆に各国の独立運動を弾圧した。キューバは事実上、アメリカ合衆国の支配下におかれた[4]。
1898年から1900年までのアメリカ合衆国大統領選挙では、アメリカ合衆国は「進歩の時代」を掲げてフィリピンを領有して、ヨーロッパの列強と同様に植民地主義を進めるべきとの「帝国主義者」と、アメリカ合衆国憲法の謳う共和制の価値を重視して各国の独立を支持してアメリカは他国への干渉を控えるべきとの「反帝国主義者」の間で、いわゆる「帝国主義論争」が発生した[5]。「帝国主義者」の側が勝利して共和党のウィリアム・マッキンリーが大統領となり、併合を進めた。
続く米比戦争では、マーク・トウェインやアンドリュー・カーネギーに代表されるアメリカ反帝国主義連盟などが、植民地主義に反対し、各国の独立運動に賛成する立場から、フィリピンの併合に反対した。
1917年にはヨーロッパでウラジーミル・レーニンの「帝国主義論」が出版され、後のマルクス・レーニン主義を支持した各国の共産党やその支持者は、社会主義や共産主義の立場から「アメリカ帝国主義」とのレッテルを貼った。 18世紀にはスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスなど歴代のヨーロッパ列強が、帝国主義的拡張や植民地主義を行っていた。 アメリカ合衆国は1776年に独立したが、18世紀前半はマニフェスト・デスティニー的な地続きの領土拡張を行っていた。また、イギリスからの独立を掲げて果たした事もあり、植民地主義には反対し、独立に賛成する世論が強かった。 1846年からの米墨戦争などで現在の合衆国本土域が確定した後に、中央アメリカへの干渉を本格化し、1909年からのニカラグア干渉では政府を転覆させ占領を行った。米西戦争後におけるアメリカ合衆国の植民地 1898年の米西戦争とパリ条約により、スペイン帝国は西インド諸島と太平洋におけるほとんどの植民地をアメリカへ割譲し、アメリカ合衆国による植民地獲得競争への参加が本格化した。 以下は過去または現在においてアメリカ合衆国領、及び保護国(事実上、憲法上の双方)であった地域である。
19世紀以降
アラスカ:1867年ロシア帝国から720万米ドルで購入、1959年にアラスカ州へ昇格。