アメリカ合衆国
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核拡散防止条約(NPT)はアメリカを核兵器国と定義し、原子力平和利用の権利(第4条)と核不拡散(第1条)・核軍縮交渉(第6条)義務を定めている[41]

以後、世界最強の経済力と軍事力を保持する超大国として、「自由民主主義」の理念を目的・大義名分として冷戦期およびそれ以後の外交をリードする事になる。
戦後とソ連との冷戦1985年、ジュネーブにて、ミハイル・ゴルバチョフソ連書記長と会談する米大統領ロナルド・レーガン

第二次大戦後は、連合国としてともに戦ったソ連との冷たい戦争(冷戦)が始まった。一時は上院議員ジョセフ・マッカーシーらに主導された赤狩り旋風(マッカーシズム)が発生するなど、世論を巻き込んで共産主義の打倒を掲げた。

冷戦においては、ソ連を盟主とした東側諸国共産主義社会主義陣営に対抗する西側諸国資本主義自由主義陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、韓国中華民国台湾)などに経済支援軍事同盟締結などで支援した。共産主義国家を除く世界の大半の国に影響力を広めることになった。

アメリカ合衆国は北大西洋条約機構(NATO)によって、ソビエト連邦はワルシャワ条約機構によって他国に多数の自国の軍事基地を設立させていった。核兵器を保有していないドイツイタリアオランダなどの国内にもアメリカ軍基地の他に核兵器を設置した(核シェアリング)。しかし、発射の決定権は全てアメリカ連邦政府が保持していたため安全保障面で疑問視された。

戦勝国であり核兵器までも保有しているイギリスにも1万人を超えるアメリカ兵と在英アメリカ軍が、また上記以外にもトルコノルウェースペインサウジアラビアにもアメリカ軍が駐留し、西側諸国の上空を守っていた。アジアでも朝鮮戦争停戦後、韓国には在韓米軍フィリピンタイに駐留した。日本にも日米安保条約に基づき在日米軍が数万人駐留している。

同時に南アメリカもアメリカ合衆国の政策の影響力により、アメリカ合衆国寄りとして政策を続けられたため、「合衆国の裏庭」と批判されるほどであった[注釈 3]が、キューバ革命以降はキューバと敵対している。

冷戦期には朝鮮戦争ベトナム戦争など世界各地の紛争に介入している。グレナダ侵攻の際は宣戦布告を行わないまま開始した。ベトナム戦争ではトンキン湾事件で事実を一部捏造し本格的介入に踏み込んだ。核兵器の製造競争などもあり、ジョン・F・ケネディ政権下の時代にソ連との間でキューバ危機が起こるなど、核戦争の危機もたびたび発生し、1963年にはケネディ大統領暗殺事件が発生した。

冷戦中に「自由と民主主義の保護」の理念を掲げたが、国益追求もひとつの目的でもあった。実力行使で理念と矛盾する事態を発生させ、ベトナムへの介入は西側・東側諸国を問わずに大きな非難を呼び、国内世論の分裂を招いた。「反共産主義」であるという理由だけでアジアラテンアメリカ諸国をはじめとする世界の右派軍事独裁政府への支援や軍人に対しても、パナマ米州学校で「死の部隊」の訓練を行った。こうして育てられた各国の軍人は母国でクーデター内戦を起こし、母国民に対して政治的不安定と貧困をもたらす結果となった。

同時に、大戦の後遺症に苦しむ同盟国への支援と安全保障の提供は、経済成長をもたらす一因ともなって東側との大きな生活水準格差を生み出し、のちに東欧革命の原動力の起因となった。
人種差別と公民権運動

民主主義国家」を標榜するアメリカであったが、1862年の奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による人種差別が法律で承認され、一部の州では結婚も禁止する人種差別国家でもあった。1967年まで16州で白人が非白人と結婚することを禁じていたが、アメリカ最高裁判所が異人種間結婚を否定する法律を憲法違反と判断した[42]1960年代にはこのような状態に抗議するキング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行った結果、1964年7月に当時の大統領リンドン・ジョンソンの下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。

差別撤廃のための法的制度の整備は進んだものの、現在に至るまでヨーロッパ系移民およびその子孫が人口の大半を占め、社会的少数者の先住民ユダヤ系移民、非白人系移民とその子孫(アフリカ系ヒスパニックアジア系など)などの少数民族に対する人種差別問題は解消していない(アメリカ合衆国の人種差別)。それは就職の際の格差などから、警察官が人種の相違を理由に不公平な扱いをしたといった問題としてロス暴動のような大きな事件の原因となることすらある。アフリカ人への奴隷貿易や先住民虐殺の国家的行為に基づく歴史的事実については、連邦政府としてはいまだに謝罪していない。1965年、中米紛争の一環として、再びドミニカ共和国の占領、1983年、ロナルド・レーガン政権は、宣戦布告なしでグレナダ侵攻と1986年にはリビアへの無差別爆撃を開始した。詳細は「アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)」を参照
冷戦終結と貿易赤字と単独主義

1989年冷戦終結と1991年ソビエト連邦の崩壊によって、結果的に事実上アメリカ合衆国側(自由主義陣営)の勝利となり、以後唯一の超大国として「世界の警察(globocop)」と呼ばれ[43][44][45][46][47][48][49]、冷戦後の世界はパクス・アメリカーナとも呼ばれるようになった。

冷戦時代から引き続いて、日本、韓国、サウジアラビア、ドイツ、イギリス、イタリア、オーストラリアエジプト、ベルギー、スペインやトルコ、ルーマニアやデンマーク、ノルウェーなど国外の戦略的に重要な地域に米軍基地を現在も駐留・維持し続け、1989年にはジョージ・H・W・ブッシュ政権の元、パナマ侵攻を決行し、1990年には湾岸戦争と各国の紛争や戦争に介入した。


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