アメリカ合衆国
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アメリカ合衆国は脱工業化社会であるとされている一方で、世界最大の製造国のひとつであり続けている[22]
国号「合衆国」、「アメリカ合州国」、および「美国」も参照

1507年、ドイツ人地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーは、イタリア人探検家および地図製作者のアメリゴ・ヴェスプッチの名をとって西半球の陸地をアメリカ州と名付けた世界地図を作成した[23]

United States of America(ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ)という言葉の最初の文書証拠は、大陸軍ジョージ・ワシントンの副官および検閲官の大将であるスティーブン・モイランにより書かれた1776年1月2日付の手紙である。手紙はジョセフ・リード中佐宛で、革命戦争において「アメリカ合衆国の大量で十分な力」でスペインを支援する嘆願をモイランは記した[24]

「United States of America」という言葉が最初に公開出版された証拠は、1776年4月6日にバージニア州・ウィリアムズバーグのザ・バージニア・ガゼット紙面に匿名で書かれたエッセイである[25][26]。1776年6月、トーマス・ジェファーソン独立宣言の「原草稿」の見出しにすべて大文字で書かれた「UNITED STATES OF AMERICA」という言葉を加えた[27][28]。独立宣言の7月4日の最終版において、表題の該当する部分は「アメリカ合衆国13州一致の宣言」に変更された[29]。1777年に連合規約が発布され、「連合の名称を『United States of America』と定める」と規定した[30]

短縮形は「United States」が標準的であり、ほかの一般的な形式は、「U.S.」「USA」および「America」である。ほかに口語での名称として「U.S. of A.」があり、国際的には「States」がある。18世紀後半の詩歌において人気な名称である「コロンビア」は、クリストファー・コロンブスが起源であり、コロンビア特別区の名に見られる[31]

英語以外の言語において、アメリカの名称は「United States」または「United States of America」のいずれかの、口語では「America」の翻訳であることが多い。加えて、USAのような略称はときどき用いられる[注釈 2]。東アジアでも、「America」を「亞米利加」「亞美利加」「米利堅」「美利堅」などと音訳し、「United States」を「合衆国」と翻訳することで、日本語では「アメリカ合衆国」「米国」、中国語朝鮮語ベトナム語では「美利堅合衆國」「美國」と漢字表記する。この漢字表記は歴史上一定していたわけではなく、「亜墨利加」「亜国」などの表記が用いられたことがあった[34]。一方、英語名称の翻訳を由来としない名称としては、ベトナム語でのアメリカの名称である「Hoa K?」(花旗)があり、これは中国南部でのアメリカ合衆国の国旗の古称「花旗」およびアメリカの古称「花旗国」に由来する。

「United States」という言葉は、1865年批准のアメリカ合衆国憲法修正第13条にみられる、「the United States are」のように、本来は独立州の集合体を表現した複数形として扱われていた。南北戦争終結後には、「the United States is」のように単数形として扱うことが一般的になった。現在は単数形が標準的であり、複数形は「these United States」のような慣用句にその形を留める[35]。その違いは州の集合体および単一体の間の違いを反映しており、慣用以上の重要なものとされている[36]

アメリカ合衆国国民の標準的な言及方法は、「Americans」である。「United States」「American」および「U.S.」は、「American values」および「U.S. forces」のように形容詞的に国を言及するのに用いられる。Americanは、アメリカ合衆国と関連のないものへの言及には英語ではほとんど用いられない[37]
日本語における名称

日本語においては、単に「アメリカ」、もしくは「アメリカ(亜米利加)合衆国」の通称として「米国」(べいこく)・「米」(べい)と呼ばれる場合が多い。公用文では「米国」が使用されており、「アメリカ」呼称は口語もしくはテレビのニュースなどで用いられることが多い(NHKなど)。

ただし、上述するように「アメリカ」はアメリカ大陸全体を指すので、正しくはない。在日米国大使館・領事館などはそのウェブサイトにおいて自国の事を一貫して「米国」と記述している。
歴史詳細は「アメリカ合衆国の歴史」を参照
新大陸の到達1620年、メイフラワー誓約の署名1764年、ヨーロッパ人(左)と会うネイティブ・アメリカン(右)

イタリアジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブススペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国への到達を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張をもとに新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名し、その名が定着していった。

これを契機に、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への侵略が開始した。イタリアジョン・カボットが北アメリカ大陸の東海岸を探検し、イギリスニューイングランド植民地の領有を宣言し、フランスジャック・カルティエセントローレンス川を探検したあと、その一帯をヌーベルフランス植民地とするなど、南北アメリカ大陸の探検と開拓が開始した。

のちに、アメリカ人は「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」をスローガンに奥地への開拓を進め、たとえ貧民でも自らの労働で土地を得て豊かな暮らしを手にすることができるという文化を形成して「自由と民主主義」理念の源流を形成した。その成功が誇張も含めて旧大陸に伝来し、さらに各地からの移民を誘発することになった。それと同時に、先住民であるネイティブ・アメリカンと協調・交易する一方で、虐殺や追放をして彼らの土地を強奪していった。「:en:Native Americans in the United States#Removals and reservations」を参照
グレートブリテン王国(イギリス)からの独立ジョン・トランブル画『独立宣言』:1776年第2回大陸会議へ草稿を提示する5人の委員


国璽(表)国璽(裏)

北米大陸にヨーロッパ諸国が植民地支配を展開する中、イギリスと13植民地との間に経済・租税措置を巡って対立が生じた。1775年アメリカ独立戦争が勃発すると、1776年7月4日独立宣言を発表し、イギリスの優位性を崩すためにフランスと同盟を締結した。


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