アメリカ合衆国の独立
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ヘンリーは「国王が有益な性格の法を許可しないことで、人民の父であることから専制者に堕落し、忠実な臣民に対する全ての権利を失う」と言った[5]
印紙法に対する植民地の抗議の輪 1765年

1764年イギリス議会は砂糖法と通貨法を成立させ、植民地人をさらに当惑させることになった。これに対する抗議として組織的なイギリス製品のボイコットが行われた。イギリスは同じ年に「宿営法」を通すことにより植民地人に追い打ちを掛けた。これはイギリスの兵隊は特定地域の住民によって世話されるべきものとしていた。1765年に成立した印紙法はイギリスから植民地に課された最初の直接税であった。新聞、年鑑、パンフレットおよび公的文書などの印刷物は、それがトランプの札であっても印紙を貼ることが求められた。13植民地全てが激烈な抗議をし、バージニアのパトリック・ヘンリーやマサチューセッツのジェイムズ・オーティスのような人気のある指導者が大衆を反対意見でまとめた。「自由の息子達」と呼ばれる秘密結社が多くの町で作られ、印紙を売ろうとすれば暴力を使って脅したので、誰も法に従わなかった。ボストンの自由の息子達は副海事裁判所の記録文書を焼き、首席判事トマス・ハッチンソンの優美な屋敷を略奪した。幾つかの植民地政府が共同行動を提案し、1765年10月にニューヨーク市で開催された印紙法会議には9つの植民地から代表が集まった。中庸派のジョン・ディキンソンが「権利と不満の宣言」を書き上げ、代表なくして議会を通した課税案が古代からの権利を侵していると主張した。議論の重点はイギリス製品のボイコットにおかれ、植民地の輸入高は1764年の225万ポンドから1765年の194万ポンドに減った。ロッキンガム内閣が権力を握っていたイギリス議会では、印紙法を廃案にするか、あるいは強制するために軍隊を送るかという議論になった。ベンジャミン・フランクリンが雄弁にアメリカの事情を語った。植民地はフランスと先住民に対する一連の戦争で、イギリス帝国の防衛のために兵力、金を提供し、そして血を流した、その戦争の費用を払うために税金を課されることは不公平であり、反乱を呼ぶことになると論じた。議会は法の撤廃に同意したが、1766年の「宣言法」により「如何なる場合も」イギリス議会は植民地の法を作る絶対的な権利を保有すると主張した[5]。詳細は「ボストン虐殺事件」および「ボストン茶会事件」を参照

1770年3月5日、ボストンで群衆が集まって一群のイギリス兵を取り囲んだ。群衆の脅しはその程度を増していき、雪玉や瓦礫を兵士に投げつけ始めた。混乱の中でほとんど全員の兵士が群衆に向かって発砲した。11名が撃たれそのうち5名が死亡した。

この出来事は直ぐにボストン虐殺事件とよばれるようになった。虐殺の詳細が誇大に広く伝えられ植民地人の間に反英感情が広まった。この事件は特にマサチューセッツにおけるイギリスと植民地の間の関係を負の循環に巻き込んでいった。

1767年、イギリス政府はタウンゼンド諸法を通した。これは紙、ガラスおよび茶を含む日用必需品に対する課税を定めたものだった。植民地人は増税に怒りイギリス製品のボイコットを強めた。1773年サミュエル・アダムズに指導されインディアン・モホーク族の扮装をした一群の男達がイギリスの茶を運んできた船に乗り移り、1万ポンドと見積もられた茶を船から海に投げ捨てた。この事件はボストン茶会事件と呼ばれるようになるが、アメリカの愛国者の伝承で重要な位置付けとなった。ただし、このときの茶税は1シリングから3ペンスに下げられたもので、決して税率上げではなかった。ことの根源は、1773年5月に定めた茶法で、イギリスが東インド会社の救済のために茶の輸入を独占し、密貿易を禁じたことであった。

イギリス政府は「耐え難き諸法」として知られる幾つかの法律を成立させて対抗した。この中には、その商品が破壊された茶商人を植民地が確認するまでボストン港を封鎖するという処置が含まれていた。言うまでもなく、これら耐え難き諸法はイギリスに対する植民地の世論を悪化させるだけであった。
自由主義と共和主義

ジョン・ロック自由主義的考え方は独立革命の政治的根拠に大きな影響を及ぼした。例えば、ロックの「社会契約論」は、国の指導者がイギリス人の歴史ある権利を踏みにじった場合には、人々は指導者を打倒する自然の権利があるとしていた。歴史家によっては、アメリカにおけるジャン=ジャック・ルソーの影響を見出す者もいる[6]。州や国家の憲法を書くときに、アメリカ人はモンテスキューイギリスの憲法に関する理想的にバランスされているという分析を用いた。

独立革命を推進した力は「共和主義」と呼ばれる政治理論をアメリカ人が持っていたことであり、1775年の植民地で圧倒的な力を持った。イギリスの「土地に根差した党派」は政治腐敗を恐れることを強調してイギリス政府を批判していたが、アメリカの政治家にも影響を与えた。植民地人は奢侈で世襲される貴族階級の「政府」に慣れていたが、これを徐々に非難するようになった。政治腐敗が考えられる最大の悪であり、市民の美徳は個人的な欲望よりも公的な義務を前面に押し出すために要求された。男は国のために戦う公的な義務があった。女性には「共和制の母」であることが理想となり、アビゲイル・アダムズやマーシー・オーティス・ウォーレンによって実行された。共和制の女性の最初の義務は子供達に共和制の価値観を教えることであり、贅沢や見栄を避けることであった。アメリカ合衆国建国の父と呼ばれるサミュエル・アダムズ、パトリック・ヘンリー、トマス・ペイン、ベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントントーマス・ジェファーソンおよびジョン・アダムズは共和主義の強い主唱者であった[7]
西部の土地紛争

イギリスは1763年宣言アパラチア山脈を越えての植民地人の進出を規制していた。それにもかかわらず開拓者集団が西部への移住を続けた。宣言は間もなく修正され開拓者に対する障害とはならなくなったが、宣言が発行されたことと、自分達には何の相談も無く書かれたということが植民地人の怒りを買った。1774年のケベック法はケベックの境界をオハイオ川まで伸ばし、13植民地の要求を拒絶するものだった。しかし、この時までに植民地人はイギリスの新しい法律をほとんど無視するようになった。開拓者達は民兵を鍛え、戦争の準備をしていた[8]
危機 1772年-1775年ガスペー号の焼き討ちボストン茶会事件

アメリカの独立には多くの原因があったが、一連の出来事が最終的には戦争勃発の引き金になった[9]1772年6月、ガスペー事件が起こった。不人気な貿易規制を活発に強制する活動を行っていたイギリスの艦船ガスペー号がアメリカの愛国者によって燃やされた。その後直ぐに、マサチューセッツのトマス・ハッチンソン知事は、知事と判事がロンドンから直接給与が払われていることを報告したが、これは植民地議会を無視するものであった。1772年遅く、サミュエル・アダムズは13植民地全体を繋ぐ通信委員会を新しく作り、革命勢力の政府となる枠組みを作った。1773年早く、最大の植民地であるバージニアがその通信員会を創設し、パトリック・ヘンリーやトーマス・ジェファーソンが任務にあたった[10]

植民地人のいわゆる「耐え難き諸法」は、イギリス議会が法制化した4つの法律からできていた[11]。1つ目は「マサチューセッツ統制法」であり、マサチューセッツに対する特許を修正し、町の集会を制限した。2つ目は「司法管理法」であり、イギリス兵が法廷に召喚されるとしても植民地ではなく、イギリス本国の法廷でということにされた。3つ目は「ボストン港法」であり、ボストン茶会事件で失われた茶の弁償が済むまでボストン港を封鎖することであった。ただし、茶の弁償は結局なされなかった。4つ目の法は1774年の「宿営法」であり、知事が使われていない建物をイギリス兵の宿舎に当てることを許可していた。1774年秋に開催された第一次大陸会議は「耐え難き諸法」が憲法に反しているという、いわゆるサフォーク決議を採択し、大衆には民兵の組織化を、マサチューセッツには愛国者の政府を作ることを要求した。

このことを受けて、特にマサチューセッツ統制法に対応するためにウースターの住民は土地の政庁舎の前で武装したピケを張り、イギリスの判事の入庁を拒んだ。同じような出来事が植民地中で起こった。イギリスは本国から増援隊を送ったが、その部隊が到着する前に、防御の厚いボストン市を除くマサチューセッツ植民地全体が地域の事情に関してはイギリスの統制から外れてしまった。
レキシントンでの戦闘開始ベンジャミン・フランクリンによって作成された「戦いに加われ、さもなくば死を」の漫画。イギリスに対抗するために植民地の団結を繰り返し訴えた。

1775年4月19日レキシントン・コンコードの戦いが起こった。


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