アメリカ合衆国の宇宙開発
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初期には地上から月を往還可能なロケットの案が一番有力であったが、ヴェルナー・フォン・ブラウンなどの働きかけで結果的には月周回軌道へ幾つかの部品で出来た宇宙船を送り込む案で固まった。ランデブー、ドッキングなど複雑な構造を持つ方法であったが、一番実現に近い案であった。

アポロ計画のために行われたジェミニ計画やサーベイヤー計画などの実験は多くが成功していたが、アポロ宇宙船の初めての有人打ち上げ、アポロ1号の試みは悲劇が襲った。ロケットの打ち上げ準備中に火災が発生し、船内に待機していた3人の宇宙飛行士が死亡したのである。原因は電気系統のショートからの火災であり、この失敗は全米から大きな非難を浴び、司令室は安全になるように基本的な設計からやり直すことになった。この失敗によって計画は大きく遅れることになった。この時期、ソ連も月を目指すような様子を見せていた。月に立てられるアメリカ国旗

アメリカはその後も計画を推進した。火災事故の後はじめて行われたアポロ4号では世界最大のロケットサターンを無事に打ち上げ、アポロ7号では長期間の宇宙滞在での人間の状態を研究し、アポロ8号では月の周回に成功したのである。これによってアメリカはソ連より早い月周回を達成し、その技術力を世界に証明した。この後も実際の着陸試験などが行われ、終にアポロ11号は人類を乗せて月への着陸を果たし、アメリカ人が世界で初めて月の土を踏んだのである。1969年7月20日のことであり、ケネディ大統領が演説したとおりアメリカは何とか1960年代に月へ到達したのである。月探査はその後6度にわたって行われ、ローバーを送り込んで広範囲を探査したほか、持ち帰られた鉱物や情報から月への科学が大きく進んだ。

ケネディはこのときすでに亡くなっており、その演説内容の達成を見ることはなかった。アポロ計画はその後も20号まで続けられる予定であったが、1960年から始まったベトナム戦争への出費などのため、他の予算が大きく制限されNASAの予算は大きく削減された。このためアポロ計画は17号を最後に中止される。ケネディ大統領時代にベトナム戦争に軍事顧問団を置き続けたことが後の泥沼化の要因になったため、アポロ計画はケネディによって始められケネディによって中止されたとも言える。

ソ連はアポロ11号が到達した直後に「有人月着陸の無謀さと無意味さ」を強調するコメントを発表し、有人月旅行計画の存在を公式に否定した。また、ソ連は探査機を月に送り込み、月からのサンプルリターンに成功した。これによってアポロ計画自体に対する反論がアメリカ国内でも起こったが、ソ連も実際には1975年まで有人月旅行計画が存在していた[1]
宇宙利用と惑星探査アポロ・ソユーズテスト計画、ドナルド・スレイトンアレクセイ・レオーノフ

月到達以降は米ソ両国ともに偵察衛星は打ち上げられたものの宇宙への期待値は小さくなっていった。そのような中でNASAは惑星探査か宇宙ステーション実験のどちらかに予算を絞るように命令された。しかし、アポロ時代に中止されたサターンロケットを再利用することで両方を行うことが可能になった[1]

アメリカ初の宇宙ステーションはスカイラブ計画で行われた。これはロシアの宇宙ステーションサリュート1号よりは遅れたが、非常に大きな宇宙ステーションになった。初期の失敗によって修理が必要になったが、合計4回宇宙ステーションへ人間が送られた。また、ソ連との間で宇宙での滞在時間競争が起きた。スカイラブはスペースシャトル開発の計画と連携してステーションをより高い位置に持っていく計画が存在したが、スペースシャトルの開発が遅れたためこれは実現せず、主に3回の利用のみで大気圏に再突入することになった。

この後、アポロ宇宙船を利用してアポロ・ソユーズテスト計画も行われた。これはアポロ宇宙船とソユーズ宇宙船のドッキング計画であった。当時、米ソ間は緊張緩和が進んでおり、宇宙開発は金がかかることもあり両国の共同で行われた計画であった。ドッキングが必要であるためドッキング機構は両国で共に開発を行う必要もあった。これは宇宙開発競争の終わりをもたらし、現在の国際宇宙ステーションへとつながっているともいえる。

月探査後に最初に行われた惑星探査は火星探査であった。これはアポロ以前から行われていたパイオニア計画やマリナー計画の次の計画として行われ、バイキング計画と名づけられた。バイキング計画では火星の周回軌道に衛星を乗せることに成功し、2台のローバーを火星におろすことに成功した。火星は地球に似た星であり、詳しい情報が知られていない時代には生命が存在する可能性が噂されていたが、これらの探査結果によって以前から抱かれていた火星に生命が存在するという考え方は否定されるようになった。ボイジャー

惑星探査における最大の成功はおそらくボイジャー計画である。これは数百年に一度の惑星直列にあわせ、探査機をそれぞれの惑星に送り込む計画であった。ボイジャー計画に先立って送られたパイオニア11号によって土星の環が非常に薄いことや環の間に隙間があるなどの情報が得られており、これがどのようなものであるのかを調べることも期待されていた。電波を使っても10分以上かかる超遠距離通信になるため、探査機が独自で判断する能力を持ったほか、宇宙を航行中にプログラムを変えることが出来る柔軟な機能を持たせることになった[1]

ボイジャー2号1977年8月20日に、ボイジャー1号は1977年9月5日に打ち上げられ、まずは木星と土星を探査することになった。予算や当時の技術力に対する信頼は天王星海王星まで探査することを予定しなかったのである。しかしながらボイジャーは大きな成功を収める。木星大赤斑や環、衛星の状況がわかったほか、土星の環羊飼い衛星や土星の衛星タイタンの噴火など惑星科学に非常に意義深い結果を残した。これらの結果から探査の延長が認められ、ボイジャー2号はさらに天王星や海王星を探査することになり、天王星の地軸が倒れていることや逆行している海王星の衛星トリトンなどを発見した。大型ボイジャーの成功は宇宙の探査において大きなきっかけになった。
スペースシャトルとアメリカスペースシャトル

1970年代半ば頃からアメリカは再使用可能な宇宙船の開発をはじめ、スペースシャトル計画を生み出した。ロケットは通常一回利用であり、非常に高価で資材は多くが海の下に沈んでしまうため、当時から非経済的であると考えられていた。スペースシャトルはこれらの廃棄される部品を少なくするために考えられた計画であり、有人の大型の宇宙船が宇宙を往還することによって、故障した衛星の修理、調整後の地球外軌道への投入、再使用による費用の減少、宇宙空間での実験室的役割など多くの期待を込めて開発が進められた。こうして開発されたスペースシャトルは実際に多くの方法で利用されるようになった。ガリレオはスペースシャトルによって打ち上げられ、軌道上で展開した後にミッションをはじめている。また、有人飛行が非常に多く行われるようになり、日本や欧州、その他の国の宇宙飛行士も多くがスペースシャトルで宇宙へ行っている[1]

一方でスペースシャトルにリソースをつぎ込んだため、ロケットの開発は遅れた。またスペースシャトルを主力にすることを見込んで、これまで主力となっていたデルタアトラスタイタンの3種類の使い捨てロケットは生産を一時的に停止した。しかし、実際にはスペースシャトルは帰還機の修理にかかる時間が長く、望んだよりも費用の低減ができず、連続で打ち上げられないことが分かった。このようなことがわかったために、アメリカは再び使い捨てロケットの生産も復活させた[1]。この隙を突いて欧州のアリアンがロケットの商業打ち上げのシェアを奪っていった。また、アメリカはロケットの開発を行っていた日本に対しスーパー301条の適用で衛星の打ち上げを奪うなど、他国の宇宙開発での影響力を抑える外交的手段をとった。1990年代に入ると宇宙開発費は徐々に削減されていき、予算の縮小の中で宇宙開発を行わざるを得なくなった。

一方でレーガン大統領時代にはスターウォーズ計画として弾道ミサイル防衛などの計画がはじめられ、早期警戒衛星などのために国防総省に予算が組み込まれるようになった。また、GPS衛星が打ち上げられるようになったのもこの頃からである。GPS衛星は当初は軍事目的の位置確認装置として打ち上げられていたが、非常に便利であったために民間利用も行われるようになり、現在はカーナビゲーションシステムや建設重機の位置確認など多岐にわたって活用されている。

スペースシャトルではチャレンジャー事故が起こった。当初のスペースシャトルは安全性が低かった。これを改修することによって、積むことのできる貨物の量が若干減少している[1]。さらに、打ち上げが一般化するにつれ宇宙開発に対する国民の意識は薄れていった。このような中でアメリカは国際的に協力を行うことで予算を相手に出させることを目指すようになった。グレートオブザバトリー計画で計画され欧州との協力で打ち上げに成功したハッブル宇宙望遠鏡も大きな成功を収めた。ハッブル望遠鏡は遠天体の観測に大いに役立ち、様々な画像や映像がもたらされた。また、その高い成果からスペースシャトルによって何度も修理され、計画よりも長く稼動している。有人宇宙飛行ではスペースシャトルに外国人を乗せることに加え、この時期に提唱されたフリーダム宇宙ステーションは現在の国際宇宙ステーションにつながっている。


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