アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史
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バーリンは、このことをアメリカ独立戦争と南北戦争の間で奴隷の生活における「中間的出来事」として特徴付け、奴隷達が自発的に動いたのかあるいは単純に彼らやその家族が意に反して移動させられる恐れの中で生きていたのであれば、「大量移送が奴隷であれ自由黒人であれ、黒人の意識に負担となっていた」と書いた[16]

完全な統計ではないが、1790年から1860年の間に100万人の奴隷が西部に移動したと見積もられている。奴隷の大半はメリーランド州バージニア州および両カロライナ州から移住した。最初の目的地はケンタッキー州テネシー州であったが、1810年以降はジョージア州、アラバマ州ミシシッピ州ルイジアナ州およびテキサス州が多くを受け入れた。1830年代におよそ30万人が移住し、アラバマ州とミシシッピ州はそれぞれ10万人を受け入れた。1810年から1860年の間の10年間毎に少なくとも10万人の奴隷が生まれた土地を離れた。南北戦争前の最後の10年間、25万人が移住した。マイケル・タッドマンは1989年の著書『投機家と奴隷:古南部の奴隷所有者、貿易業者および奴隷』で、移住した奴隷の60ないし70%は奴隷売買の結果だったとしている。1820年にアッパー・サウスにいた子供は30%の確率で1860年代までに売られた[17]

奴隷貿易業者は西部に移住した奴隷の大半に責任があった。極少数はその家族やそれまでの所有者と共に移住した。奴隷貿易業者は奴隷の家族をそのまま購入することや運ぶことではあまり利益がなかったが、運ばれる男女と同数の「自己繁殖する労働力」を生むことには利益があった。バーリンは、「国内の奴隷貿易はプランテーション以外では南部で最大の事業になった。おそらく新しい輸送方法、財務および宣伝力を採用することでも最も進歩していた」と書いた。奴隷貿易産業は「最上の働き手、元気のいい若者、繁殖用の女および上等の女の子」といった特有の言葉を発展させ一般に使われるようになった[18]。州間奴隷貿易の拡大は、売りに出される奴隷の価格が上昇するに連れて、「一度落ち込んだ海岸州の経済的復活」に貢献した[19]

貿易業者の中には、ノーフォークからニューオーリンズを通常経路としてその「動産」を船で運ぶ者もいたが、大半の奴隷は徒歩で移動することを強制された。通常の移動経路が確立され、奴隷が一時的に利用するための宿泊設備、囲い地および倉庫のネットワークが役に立った。移動が進むに連れてある奴隷は売られ、また新しい者が購入された。バーリンは「全体的に、奴隷貿易は中継点と地域の中心があり、横道や巡回路もあって、南部社会の隅々まで届けることができた。黒人であろうと白人であろうと南部の者達はほとんど関係しなかった」と結論づけた[20]

行進中の奴隷の死亡率は大西洋奴隷貿易の当時に比べれば遙かに小さかったが、通常の死亡率よりは高かった。バーリンは次のように要約した。…第二次中間経路は他にないくらい寂しく、衰弱させ、また気を落ち込ませるものだった。南部に向かう行進の陰気な様子を観察した者は「男も女も子供達までも葬式に向かう列に似ている」と表現した。実際に行進中に死に行く男や女、あるいは売られる者、再販される者がいて、奴隷は商品として扱われるだけでなく、あらゆる人間的な感情からも疎外されていた。

第二次中間経路は奴隷達に対するのと同様に貿易業者にとっても殺人や暴力で危険なものとなった。それが男達を鎖でしっかりと繋ぎ防御を図った理由であった。南部に向かう奴隷の隊列は、その祖先を西方に運んだ奴隷船に似て、動く砦になり、そのような状況下になれば反抗するよりも戦う方が通常であった。奴隷達は重武装の権力者に直面するよりも、夜の闇に紛れ北極星に導かれて寓話の自由の土地を目指す方が容易であり、危険も少なかった。 ? Berlin pg. 172-173

一旦移動が終わると、奴隷達は東部で経験したのとは全く異なる辺境の生活に直面した。樹木を取り払い、荒れ地に穀物を育て始めることは過酷な重労働であった。不適切な栄養、悪い水、さらに旅や仕事の疲れで消耗した体力の組み合わせは新しく到着したばかりの奴隷を弱らせ損失を生んだ。河床に近い新しいプランテーションに適した土地は蚊に襲われたり、他の自然環境の猛威に曝され、以前の土地では限られた免疫力しかなかった奴隷達の生存を脅かした。荒れ地からプランテーションを切り開いた最初の数年間の死亡率は凄まじいものがあり、農園主によっては自分の奴隷を所有するよりも、可能ならば奴隷を借りて使った方が良いと考える者もいた[21]

辺境における過酷な環境のために奴隷の反抗が増え、奴隷所有者や監督者は以前にも増して暴力に頼るようになった。奴隷の多くは綿花畑の経験がなく、新しい生活に要求される「日の出から日没までの集団労働」に慣れていなかった。奴隷達は東部でタバコや小麦を栽培していた時よりも過酷な労働に駆り出された。奴隷達はまた自分達の消費のためあるいは交易のために、家に戻って家畜を飼ったり、野菜を育てたりすることでその生活水準を上げる時間も機会も少なかった[22]

ルイジアナ州では主要な作物が綿花ではなく砂糖であった。1810年から1830年の間、奴隷の数は1万人以下のレベルから4万2千人以上にまで増加した。ニューオーリンズは国中でも重要な奴隷のための港となり、1840年代までには国でも最大の奴隷市場ができた。サトウキビを取り扱うことは綿花の栽培よりも体力を要し、購入される奴隷の3分の2を占めた若い男性が好まれた。若くて未婚の男性奴隷を集団で扱うことについて、その所有者は「特別野蛮な」暴力に頼る機会が増えた[23]
奴隷の処遇詳細は「アメリカ合衆国における奴隷の扱い(英語版)」を参照

歴史家のケネス・スタンプは奴隷制における強制力の役割について「州が奴隷所有者に与えた罰を与える権限がなければ、隷従は存在し得なかった。他の全ての管理方法と比較しても他の方法の重要さは2次的なものに過ぎなかった。」と述べている。スタンプはさらに、報酬を奴隷に与えることは奴隷が適切に成果を上げる役には立ったが、大半は次のアーカンソー州の奴隷所有者の言に同意したとも注釈している。さて、私の知っていることを話そう。黒人を働くように説得しようとすることは「豚に真珠を投げること」に似ている。奴隷は働くように仕向けなければならないし、その義務を果たさなかったらそのために罰を受けることを常に理解させて置くべきである。 ? Stampp, The Peculiar Institution pg. 171

ピュリッツァー賞受賞者の歴史家デイビッド・ブライオン・デイビスとマルクス主義者の歴史家ユージーン・ジェノヴェーゼによれば、奴隷の処遇は過酷で非人間的なものであった。働いているときも公衆の中を歩いているときも、奴隷として生きる人々は合法の暴力で規制された。デイビスは、奴隷制のある観点で「福祉的資本家」の見方を採り、次のように指摘している。我々は、深南部のこれら同じ「福祉的資本家」のプランテーションが基本的に恐怖で支配されていたことを忘れてはならない。最も親切で人間的な所有者であっても暴力を恐れさせることだけが、当時の観察者が「正規の訓練された兵隊」と指摘したように、「規律を持って」朝から晩まで畑の集団を働かせる手段であった。度々公衆の前で笞打つことは不十分な労働、無秩序な行動、あるいは上位のものの権威を受け入れない行動に対する罰を全ての奴隷に思い出させた。 ? Davis pg. 196

大規模プランテーションでは、奴隷の監督者が従わない奴隷を笞打ち、残忍に扱うことを認められていた。奴隷法は暴力を認め、免責にし、また要求すらしており、それが奴隷制度廃止運動家によって残忍と非難された。奴隷も自由黒人も「黒人法(英語版)」(英語: Black Codes)によって規制され、その行動は白人から募集された奴隷警邏隊によって監視され、警邏隊は逃亡した奴隷に略式の罰を与えること、時には傷を負わせたり殺すことさえも許された。肉体的な虐待や殺人に加えて、奴隷達は、所有者が利益や、罰あるいは負債の償還のために売り渡すと決めた場合はその家族の一員を失う危険性をいつも抱えていた。主人や監督者を殺したり、納屋を燃やしたり、馬を殺したりあるいは仕事を鈍くしたりして報復する奴隷もいた[24]。スタンプは、ジェノヴェーゼの主張する奴隷が直面していた暴力や性的搾取に関しては異議を唱えず、主人と奴隷の関係の分析についてマルクス主義的アプローチをすることの適切さに疑問を投げ掛けた[25]

ジェノヴェーゼは、奴隷がその所有者の合法的な財産であったので、奴隷にされた黒人女性がその所有者、所有者の家族の一員あるいは友人によって強姦されることは異常ではなかったと主張している。その結果として生まれる子供達は、奴隷所有者により解放されない限り、その母の状態を引き継ぎ奴隷のままであった。One drop ruleにより奴隷の血が少しでも混じっていればその人間は白人と同等の権利は認められなかった[26]。これは混血児でも父親が認知すれば相続権も認められた南米とは対照的である。ネル・アーウィン・ペインターや他の歴史家は、南部の歴史が「人種差別を越えて」行ったとも記した。当時の農園主階級と結婚したメアリー・チェスナットファニー・ケンブルの証言や、公共事業促進局の下に集まった元奴隷達の証言は、女奴隷が所有者や監督者階級の白人男性に虐待されたことを裏付けていた。

しかし、ノーベル経済学賞を受賞したロバート・フォーゲルは、奴隷の増殖と性的搾取が伝説としての黒人家族を破壊したと信じると述べることで議論を呼んでいる。家族は奴隷制の下の社会的組織で基本単位であり、農園主が奴隷家族の安定を奨励することは経済的利益にも繋がったので、多くの者がそうした。奴隷の大半は家族ごと売られるか、家族の元を離れても良いと考えられる年齢に達した個人が売られた[27]

ジェノヴェーゼによれば、奴隷達は最小のやりかたで食べ物と着るものと家、それに医療を与えられた。クリスマスに少額のボーナスを渡すのが普通であり、奴隷所有者の中には奴隷達が稼ぎを貯めたり、賭け事をすることを認める者もいた。一人の奴隷、デンマーク・ビージーは宝くじに当たってその自由を買ったことで知られている。多くの家庭では、奴隷の肌の色によって扱いが変わることがあった。色の黒い奴隷は農園で働き、明るい色の奴隷は家の従僕となり、よりましな衣服、食物、住居を与えられた[24]

トーマス・ジェファーソンの有名な家庭のように、肌の色という概念的な問題ではなかった。


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