アメリカ合衆国によるドミニカ共和国占領_(1916年-1924年)
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さらに米国に敵対的で内戦を引き起こした民兵隊の代わりに米国に友好的なドミニカ警察衛兵という専業軍事組織を設立して、権力を現地のエリート層から奪いつつ兵士の忠誠心を中央政府に向かわせた[11]

しかし、スペイン語も話さず、共和国の福祉にあまり関心をもっていない外国人に主権を明け渡してしまったことに多くのドミニカ人が憤慨した。ラモン・ナテラ(英語版)将軍などを指導者とした「ガビリェロス」(gavilleros)と呼ばれたゲリラ運動[2]エル・セイボ州サン・ペドロ・デ・マコリス州など東部諸州で広範な支持を得た[2]。このゲリラ運動は土地勘を武器に1917年から1921年まで米国に抵抗した[12]。しかし抵抗運動は膠着に陥り、ゲリラは条件付き降伏に同意した。
撤退1916年8月29日に荒波でサント・ドミンゴで座礁したメンフィス

第一次世界大戦後、米国での世論は占領に反対するようになった[2]ウッドロウ・ウィルソンの後任として1921年3月に就任したウォレン・ハーディングはハイチとドミニカ共和国の占領への反対運動を打ち出した[2]。1921年6月、米国代表はハーディング計画(スペイン語版)と呼ばれる撤退提案を提示した。この提案では軍政府の行動を全て批准すること、公的建設などの支出のための借款250万米ドルを許可すること、ドミニカが警察衛兵(現国民衛兵)に米国人士官を受け入れること、米国の監督下で選挙を行うことを撤退の条件とした。ドミニカの世論は反対一辺倒だったが[2]、中道派の政治家は提案を基に交渉を行い、1922年6月30日の米国国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒューズとドミニカ駐アメリカ大使フランシスコ・ペイナド(Francisco J. Peynado)の合意につながった[13]。この合意では選挙が行われるまでの暫定大統領の選出が定められた[2]。高等弁務官サムナー・ウェルズの監督下、フアン・バウティスタ・ビシニ・ブルゴス(英語版)が1922年10月21日に暫定大統領に就任した[2]。1924年3月15日の大統領選挙(英語版)では親米派のオラシオ・バスケス・ラハラ(英語版)がペイナドに勝利した。バスケスの同盟党(Partido Alianza)も上院と下院の両方で勝利した[2]。7月13日にバスケスが就任すると、ドミニカ共和国の支配は正式にドミニカ人の手に戻った[2]
その後

米軍は撤退したが、関税の徴収と使用についての懸念が残った。そのため、米国とドミニカ共和国の代表が会談して、1924年12月27日に条約を締結、米国がドミニカ共和国の関税収入の支配権を与えられた[14]。この条約は1941年に廃止され、関税収入の支配権がドミニカ共和国政府に戻った[14]。しかし、この条約によりドミニカ共和国の国民の間で遺恨が残った[15]

ドミニカ戦役記章(英語版)はこの戦争に参加した軍人に授与された従軍記章(英語版)である。
関連項目

サン・フランシスコ・デ・マコリスの戦い
(英語版)

ドミニカ内戦(英語版)

ドミニカ共和国の歴史

パルマ・ソラの虐殺(英語版)

脚注^ The Savage Wars of Peace: Small Wars and the Rise of American Power. (2014). p. 169. https://books.google.com/books?id=YX7ODQAAQBAJ&pg=PA169&lpg=#v=onepage&q&f=false 
^ a b c d e f g h i j k l m n “ ⇒USA Dominican Republic Resistance 1917-1921”. The Dupuy Institute (2000年12月16日). 2014年6月29日閲覧。


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