アメリカン航空
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ニューヨークを本拠地としてボストン、ニューヨーク、シカゴダラスへの路線を運航。またダラスからはロサンゼルスへ繋ぐことにより、早くから長距離路線によるコネクション方を編み出した。設立当初の運航機材は主にフォッカー トライモーターやフォード トライモータを利用していた。
第二次世界大戦前[ソースを編集]ダグラスDC-3

1934年、数々の運搬会社を保有するコード・ホールディングス社がアメリカン・エアウェイズを買収し、現名のアメリカン航空に社名変更する。コード社はテキサス州のエリートビジネスマンであるサイラス・ローレット・スミスをアメリカン航空の最高経営責任者に任命。

スミスの下、アメリカン航空はダグラス社と積極的に飛行機設計の提携を結ぶ。1936年には両社の共同によりダグラス DC-3の開発と運航に成功。長距離用のDC-3を導入後、運航機を「フラッグシップ」(旗艦)、空港ラウンジを「アドミラルズ・クラブ」(提督クラブ)などと航海用語を自社ブランドへ使い始める。また当時のブランドイメージとして機長席の窓から四星の「提督ペナント」旗が掲げられていた。

またスミスは航空会社と空港の関係が今後重要視されるであろうことにいち早く気づく。ニューヨークでラガーディア空港が建設される際に乗客側は何を求めているのかを調べるため、積極的に新空港建設のアドバイザーを買って出、空港の効率性向上や世界初のエリート専用ラウンジ「アドミラルズ・クラブ」の設置など、後の空港建設に多大な影響を与えた。
第二次世界大戦後[ソースを編集]アメリカン・オーバーシーズ航空のボーイング377・ストラトクルーザーボーイング707-320F

第二次世界大戦後、欧州路線への拡張としてアメリカン・オーバーシーズ航空を子会社として設立。しかし1950年にアメリカン・オーバーシーズ航空は当時のライバル・パンアメリカン航空へ売却された。同時期にアメリカン航空はメキシコ主要都市へ路線を拡大。

アメリカン航空は早くからジェット機を主要旅客機として導入した。1959年1月25日にボーイング707で初のジェット機による大陸横断便を運航。1960年代にはアメリカ本土の西と東海岸をノンストップ便で結ぶジェット旅客機が積極的に導入され、当時の宇宙開拓ブームにより「アストロジェット」と親しまれた。

また、1962年にはIBM社との協力で世界初の電子航空予約システムSABREを導入。これにより今まで紙と鉛筆で行っていた予約システムがコンピューター管理で可能になり予約の効率性を高めることに成功した。

この時代、アメリカン航空はユナイテッド航空デルタ航空イースタン航空と共に「Big4」と呼ばれる大手国内線航空会社へと成長していった。
1980年代と1990年代[ソースを編集]ワンワールド塗装のB777-200ER

1979年に本拠地をダラスに移す。新本拠のダラスがアメリカ本土の中心地点であるという地理的条件を利用し、路線図をスポーク&ハブ・システムに組み替える。1981年からダラス・フォートワース国際空港シカゴ・オヘア国際空港を主要ハブとし、欧州や日本への路線を拡大。

1981年、経営改善の一環として、生涯ファーストクラス乗り放題のサブスクリプションチケット「Aエアパス」を25万ドル(当時の為替レートで約5500万円)で販売。28人が購入した。ところが購入者が毎日のように同チケットを行使してファーストクラスを利用する乱用者が続出したため、アメリカン航空は更に大きな損失を抱える事態になった。1994年に同チケットの販売を終了し、2007年に不正行為を行った購入者2人のチケットを無効にした[8][9]

1980年代後半、サンノゼ国際空港ローリー・ダーラム国際空港ナッシュビル国際空港とハブ指定の空港を更に拡大するもの、いずれも利用者が増えず1990年代後半に退却。2000年以降も成田 - サンノゼ線[10]を運航していたが、同じカリフォルニア州にあるロサンゼルスへの乗り入れ開始などを受けて2006年に中止された。

1990年、経営難のトランス・ワールド航空からロンドン・ヒースロー空港への路線権利を4億4500万ドルで獲得。これによりヒースローでアメリカ行きのハブを築く事に成功。同年、これもまた経営難のイースタン航空からマイアミ空港のハブと中南米路線の権利を購入。1990年代以降、アメリカン航空はマイアミのハブを最大限に利用し、カリブ海や中南米への路線開拓へ力を注いだ。

1998年に、ブリティッシュ・エアウェイズとカナディアン航空、キャセイパシフィック航空、およびカンタス航空と共に航空連合「ワンワールド」の結成を発表した。
2001年の3度にわたる事件・事故による乗客減[ソースを編集]ボーイング757型機

2001年4月、長い間経営難に悩まされていたトランス・ワールド航空セントルイスのハブ権利を買収。双方の社員組合で給料や先輩優遇制度の違いで不平はあったものの、大手ライバルを吸収することによってアメリカン航空の成長に期待感が生まれた。

しかし、同年の9月に発生したアメリカ同時多発テロ事件では、国内線の11便77便ハイジャックされてテロに使われた。さらに、2か月後には587便が墜落事故を起こしてしまった。そのため利用客が激減して経営が悪化し、一時期は倒産寸前まで追い込まれた。ユナイテッド航空デルタ航空ノースウエスト航空といった大手の同業他社が連邦倒産法第11章の適用を申請して経営破綻する中、アメリカン航空も同章の適用を受ける案が社内で議論されたが、「機内サービスを減らし、コストダウンを図れるところは何でもし、何とか持ち直す」方法で経営破綻を回避することとなった。

これにより、どんなに小さなことでもコストに響くことを再認識し、パイロットやアテンダントからのアドバイスはもちろん、グランドスタッフからメンテまで各部署からコストダウンへの案が出された。自社ブランドイメージとプライドを飲み込み、国内線エコノミークラスの機内食廃止、ファーストクラスで提供されるサラダのオリーブを1個減らす、機内で配られる新聞の撤去など、細かいサービスをカットした。

燃料費が機体重量と比例することも分かり、少しでも機体を軽量化するためにさまざまな案が出された。短距離路線ではコーヒーポットは撤去され、ゲートではエンジンを一切使用せず地上から供給される電源のみで待機、滑走路へタキシング中は片翼のエンジンのみでアイドリングするなど。また燃料を満タンにすると燃料そのものが機体の重量に影響することから、各路線に必要な分だけの燃料を供給する案も実行。この重量と燃料比例リサーチ中にアメリカン航空のポリッシュド・スキン機体が他社の機体よりペンキの重さ分軽いことも判明し、これによりポリッシュド・スキンの機体は当分変更しないと決められた。
倒産、そしてUSエアとの合併へ[ソースを編集]

苦しい経営のなか2007年にテロ後初の業績利益を達成。テロに機体を使われた一被害者ながらも、破産することなく不死鳥の如く甦った航空会社としてさまざまな経済誌から好評価を与えられた。

しかし、その後の燃料費上昇により、2008年5月には各種手数料の値上げを発表、とりわけ米国内線で他社に先駆けて1個目の受託手荷物からの有料化に踏み切ったことで注目を集めた[11][12]。2011年11月29日、ニューヨーク州の裁判所に連邦倒産法第11章の適用を申請し、破綻した。

2012年8月31日、USエアウェイズとの合併の可能性が示唆された。合併が実現すれば、ユナイテッド航空グループと匹敵するグループになる[7]モントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港から離陸する新塗装のボーイング 737-800

2013年1月17日、新しい塗装とロゴマークを発表[1]。747-123の導入以来親しまれてきた胴体はこれまでのポリッシュド・スキンを止め銀色塗装となる他、垂直尾翼はこれまでのAAと鷲のロゴからアメリカの星条旗をモチーフとしたストライプ塗装となり、現行塗装のイメージを一新する。

新デザインをまとったボーイング777-300ERの初号機を同年1月31日のAA963便(ダラス - サンパウロ)から路線就航を開始[13]。それ以降に新規導入する機材は全てこの新塗装をまとう(2013年は60機導入)。


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