アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー
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同じくABCを略称に用いる日本朝日放送グループホールディングス(及び傘下の朝日放送テレビ朝日放送ラジオ、前身の朝日放送の英称Asahi Broadcasting Corporationから)や、オーストラリアオーストラリア放送協会(Australian Broadcasting Corporation)との関係は特にない。なお、区別のため本局を「米ABC放送」と表記することもある[2]

日本ではフジテレビジョンと業務提携している。
歴史
創設

真のラジオネットワークが組織された1920年代後半から、アメリカ合衆国におけるラジオ放送は、CBSと、RCAの子会社であるNBCの2社によって支配された。

RCAは1926年のNBC創立以前に、当時AT&Tの子会社であったニューヨークのラジオ局・WEAF(後のWNBC、現在はCBSの子会社であるWFAN)を購入した。RCAはWEAFを手に入れると共に、アメリカ北東部で番組を他の局に供給する緩やかに組織化されたシステム、すなわちネットワークも手にした。WEAFグループを手に入れる以前の1926年中頃の時点で、RCAは同様のグループを所有しており、それはRCAが1923年にウェスティングハウスから入手した、ニューアークのWJZを中心としたシステムであった。これらはRCAの二つのネットワーク、「レッド」と「ブルー」の基礎となった。伝えられるところに依ると、レッドとブルーの名称は初期の技術者達が系列を指示するときに使用する画鋲の色(WEAFが赤でWJZが青)からきたとされる。

3年におよぶ調査の後、1940年5月に連邦通信委員会 (FCC) は「Report on Chain Broadcasting」と言うレポートを発行した。このレポートでは「NBCレッド、NBCブルー、CBS、MBSがアメリカの放送界を支配している」とし、それらの「分離」を提案、RCAに一つのネットワークの売却を要求した。

NBCレッドは最大のラジオネットワークで、主に娯楽番組と音楽番組を放送していた。加えて多くのレッド系列が大出力で明瞭な局であり、全国的に聴取されていた。NBCブルーは主にニュース番組および教養番組を放送しており、それらの大半が「サスティニング・プログラム」、つまりスポンサーなしであった。他の調査結果でFCCはRCAがNBCレッドに対する競争を抑圧するのにNBCブルーを使用したと主張した。FCCはネットワークを直接規制したり、認可したりはしなかったが、そのレポートは個々の局に対する認可に影響を及ぼすかもしれなかった。結果としてFCCは「複数のネットワークを保持するネットワークに属する標準的な放送局に、免許は付与しない。」と決定した。NBCはこの間接的なスタイルの規制は違法であると主張し、裁判に訴えた。しかしながら裁判はFCCの勝利となり、NBCは1942年1月8日にレッドとブルーの分離を決め、ブルーを売却することとした[3]

RCAはNBCブルー売却の任務をマーク・ウッズに託した。1942年から43年にかけてNBCレッドとNBCブルーはそれらの資産を分割した。ブルーの価格は800万ドルに決定し、ウッズは購入する見込みのある者を見て回った。それらの中に投資銀行のディロン・リードがあり、750万ドルの申し入れがあった。しかしながらウッズとRCA社長のデヴィッド・サーノフは800万ドルの価格を固守した。NBCブルーの資産は地上通信線のリース権およびニューヨーク、ワシントンD.C.、シカゴ、ロサンゼルスのスタジオ施設、約60の系列下のタレントとの契約、「ブルー」に関連づけられた商標と人々の好感(グッドウィル)、3つの放送局(ニューヨークのWJZ、サンフランシスコのKGO、シカゴのWENR)へのライセンスが含まれた。

RCAは最終的に、エドワード・ノーブル(ライフセーバーズキャンディおよびレックスオールのドラッグストアチェーンのオーナー)にNBCブルーを売却することとなった。放送局のライセンスを移管するに当たって、ノーブルは所有するニューヨークのラジオ局、WMCAを売却しなければならなかった。FCCのヒアリングでノーブルはマーク・ウッズを社長としてとどめるという意思を示したため、論争が生じた。それはウッズが彼の元雇い主とともに(そしてそのために)働き続けるという提案に至った。これにはネットワークの売却に狂いが生じる可能性があった。ヒアリングの間、ウッズは新しいネットワークはアメリカ労働総同盟に放送時間を販売しないと発言した。ノーブルは同様の点に関してNABコードの後ろに隠れることで質問するのを回避した。不満を感じた議長はノーブルは少し再考するように勧めた。彼はその勧めに応じ、1943年10月12日にネットワークの売却は完了した。「ザ・ブルー・ネットワーク」として知られる新たなネットワークはアメリカン・ブロードキャスティング・システム(ノーブルが取引の結果設立した会社)によって所有された[4]。ブルー・ネットワークはアメリカ労働総同盟にも放送時間を販売した。

1944年9月にノーブルは「American Broadcasting Company」(WOLから)、「American Broadcasting Corporation」(WLAPから)、「American Network」(すでに活動を停止したFM局から)の名称の権利を取得し、「American Broadcasting System」から「American Broadcasting Company」への改名を法的にクリア、NBCブルーは「ABC」に改名された[5]。このことは改名の嵐を引き起こした。CBSは混乱を避けるため、1946年にニューヨークの主要局、WABC 880のコールサインをWCBSに変更した。1953年にニューヨークのWJZと姉妹テレビ局は放棄されていたWABCWABC-TVのコールレターを取得した。(ウェスティングハウスは1959年にボルチモアのTV局を取得した際、これにWJZのコールレターを再び使用することにした。ボルチモアのWJZ-TVと姉妹ラジオ局は現在CBSが所有する。)

ABCラジオは僅かなヒット番組および著名なスターと共にゆっくりと始まり、聴取者を育てなければならなかった。ノーブルはより多くの放送局を買収し、その中にはデトロイトのWXYZも含まれた。WXYTはいくつかの人気シリーズを作り出した局であり、『ローン・レンジャー』、『サージェント・プレストン』、『グリーン・ホーネット』もWXYTのオリジナル・プログラムであった。ノーブルはまたハリウッドの製作基盤をネットワークに与えるため、ロサンゼルスのKECA(現在のKABC)も買収した。裏番組の編成はABCの特徴となった。例えば、『ストップ・ザ・ミュージック!』のような耳障りなクイズ番組をNBCやCBSのより考え深い番組に当てるなどである。番組製作のポリシーは事前録音の使用を禁ずることとなった。占領下のドイツから返却された高品質な録音テープを使用して、ABCは緊密なスケジュールから自由を欲しがった何名かの著名なスター(例えば、ビング・クロスビー)を引きつけることとなった。1940年代後半にABCは依然として4番目のネットワークと評されていたが、その勢いは既存のネットワークに迫り始めていた。
1948年: レナード・ゴールデンソンとテレビ放送の開始

ABCはラジオネットワーク設立の費用に直面し、テレビネットワークのための別途費用を呈する立場にはなかった。それでも、権利確保のため1947年にラジオ局を所有する5都市(当時全国の聴取者数の25パーセントを有していた)においてABCはテレビ放送免許の申請を行った。5件の申請は全て7チャンネルでの放送であった。フランク・マークス(ABCの技術担当の副社長)は当時ローバンド(2?6チャンネル)は軍用に再割り当てされると考え、その結果申請を行った5局のVHFチャンネル7は最小のテレビダイヤル番号となり、最も良いチャンネルポジションとなった[6]。このようなチャンネルの移動はその後決して起こらなかった。しかしながら思いがけず60年後にチャンネル7の周波数はデジタルテレビ放送に技術的に好都合であることが判明した。これは予期しなかったテレビ放送技術の夜明けであった。

ABCテレビネットワークは1948年4月19日に放送を開始した。ネットワークは最初の主要系列としてフィラデルフィアのWFIL-TV(現在のWPVI-TV)とワシントンのWMAL-TV(現在のWJLA-TV)を取り上げた。自社の所有する主要局、ニューヨークのWJZ-TV(現在のWABC-TV)との契約はその年の8月であった。残る自社所有の主要局、デトロイト、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルスでの契約は続く13か月間で行われ、1949年の秋までに重要な大都市圏においてCBSやNBCと同等の存在感を与え、ライバルのデュモント・テレビジョン・ネットワークに対する長期間の優位性も得ることとなった。

今後数年間にABCはほとんど名前のテレビネットワークであった。最大の市場を除く、ほとんどの都市は1つまたは2つだけの局を持っていた。FCCは志願者数千人を整理し、1938年と1946年の間に置いた技術的および配分基準を見直しながら、新しい局用の申請を中断した。こうした混沌とした状況は1952年の半ばまで続いた。その時まで、米国で唯一の108局があった。1952年下半期の懸濁液の終わりまで、いくつかの遅いテレビの開発と大規模な都市(例えば、ピッツバーグセントルイス)は長期間にわたって1つだけ駅を持って、ボストンなどの他にも多くの大都市は2つだけありまし、かなり多くの都市(例えば、コロラド州デンバーオレゴン州ポートランド)が全くテレビ放送がありませんでした。 ABCのような遅参者のために、これは一部の市場では二次の状態に左遷、他のものでは全くない伝送を意味した。ABCはほとんどその系列局の中で忠誠を命じていません。しかし、仲間の起動ネットワークのデュモントとは異なり、少なくとも、忠誠心と収益を生成することができそこからラジオネットワークを持っていた。また、シカゴとロサンゼルスの重要な市場で局WENR-TV(現在のWLS-TV)とKECA-TV(現在のKABC-TV)を含めて5所有・運営局の完全な補完を持っていた。その時でさえ、1951によるABC自体はひどく広げ過ぎ、破産の危機に瀕して発見した。その5所有・運営局(WJZ、WENR、KECA、デトロイトでWXYZ-TV、サンフランシスコでKGO-TV)を強化するため、だけ9常勤の系列局を持っていた。

ノーブルはついにユナイテッド・パラマウント・シアターズでホワイトナイトを見つけた。1949年代後半の合衆国最高裁判所判決「United States v. Paramount Pictures, Inc.」によってパラマウント映画から切り離された時点で、UPTは、現金が豊富だ、多くの貴重な不動産を支配していた。UPT会長レナード・ゴールデンソンは投資機会を見つけるために設定。映画業界から締め出さ、ゴールデンソンは放送の可能性を見まし、ABCの購入を交渉するために1951年にノーブルに接近した。ノーブルはビル・ペイリーのCBSなどの他の求婚者が近づいていたので、ゴールデンソンに対応するために急いではなかった。いくつかの厳しい交渉の後、UPTとの合併は最終的に受理され、1951年の春の終わりに発表された。[7] 局使用許諾の転送が再び関与していたため、FCCは異論であることが証明ヒアリングを開催した。


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