アメリカン・コミックスにおけるクリエイターの権利
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1909年法は著作権の保護期間を28年間と定めるとともに、更新手続きによりさらに28年間の延長を認めていた。これにはクリエイターの権利を保護する意図があった。実作者が権利を手放した後に大きな価値を生むようになった作品に関して、出版社と再交渉する機会を与えていたのである[19]。1973年、シーゲルとシュスターはDCが行ったスーパーマンの著作権更新を無効化しようと試みた。この時も二人の訴えは法的に認められず、1947年の権利放棄が改めて確認された。しかし、二人の窮状は一般マスコミやコミック界の同情を集めた。コミッククリエイターの権利向上を目指して活動していた人気作画家ニール・アダムスや、新聞漫画家の協会で会長を務めたこともあるジェリー・ロビンソン(英語版)(ジョーカーの作者)のような支援者も現れ、DC社に強硬に圧力をかけた[20]。映画『スーパーマン』の公開を控えていたワーナー(DCの親会社)は、『ニューヨーク・タイムズ』紙の追及に応えて「道義的責任」を認めた[21]。結果的に、シーゲルとシュスターは1975年に作者としてのクレジットと生涯にわたる年金2万ドルを獲得した[22][23]

バットマンの共作者の一人ボブ・ケインは抜け目のない人物だった[24]。シーゲルとシュスターは最初の著作権訴訟の直前、同様の境遇にあったケインに共闘を持ちかけていた。しかしケインは交渉を有利に運ぶため抜け駆けしてDC社と接触し、公式の作者としての地位を認めさせた[25]。もう一人の共作者ビル・フィンガー(英語版)の存在は葬り去られた。コミック作家がアシスタントを使うことは当時も珍しくなかったが、ケインはゴーストライターに全面的に制作を任せることがあった[26]。ケインはまた二次利用に関する権利も一部獲得し、1966年のドラマ化(『怪鳥人間バットマン』)の際には相応のロイヤルティを得た[27]

ジャック・カービーとともにキャプテン・アメリカを創作したジョー・サイモンはビジネス交渉に長けていた[28]。サイモンはマーベル・コミックスの前身タイムリー(英語版)の発行人マーティン・グッドマン(英語版)に同作を売り込み、コミックブックの収益から15%(25%とも[29])の印税を支払うという異例の好条件を取り付けた。1941年に発刊された『キャプテン・アメリカ』誌は100万部を超す大ヒットとなった。しかしグッドマンが収益を低く見せかけて印税を値切ったため、サイモンらは同誌を残して他社に移った[30]。1960年代にカービーがマーベル・コミックスに復帰してトップ作画家となるころには、印税の支払いは忘れられていた[31]。1966年、サイモンはマーベル社がキャプテン・アメリカの著作権更新を行うのを阻止しようと試みたが、示談により権利を放棄する結果となった[32]
1960年代?70年代前半
アンダーグラウンド・コミックス運動

1960年代に起こったアンダーグラウンド・コミックス運動の中で、作者の自己表現としてのクリエイター・オウンド作品が現れ始めた[33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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