アメリカンフットボール
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その後、1912年までの間にさらにルールは変わっていった[22]。フィールド・ゴールによる得点は4点から3点に、タッチダウンは5点から6点に変更、フライング・タックルや不正な手や腕及び体の使用の禁止、スクリメージ・ライン上に7人の選手が位置することの義務付けなどが行われ、これらの改革によって集団で襲いかかるような野蛮な行為は影をひそめ、現在のルールの基本が出来上がった[22]。安全面に配慮したルール改定に加え、負傷軽減のための防具の整備[注 10]も行われた。陸軍士官学校とノートルダム大学の試合(1913年)

1913年、アメリカ陸軍士官学校ノートルダム大学戦において、ノートルダム大学のガズ・ドライズ(英語版)とヌート・ロックニー(英語版)がパスプレーを繰り出し、ランプレーと効果的に織り交ぜ、それまでほとんどランプレーだけだったアメリカンフットボールの戦術において革命を起こした。40ヤードのタッチダウンパスを皮切りに、ノートルダム大学が得た5TDはすべてパスプレーによるもので、35-13で圧勝した。パスプレー(1回のみ前方にパスができるルール)自体は1906年から認可されていたが、それまでは限定的にしか使用されていなかった[注 11]
NFLの歩み最初のプロアメフト選手として知られるウィリアム・ヘッフェルフィンガー(英語版)

競技が普及するにつれて、各地のアスレチック・クラブでプレーする選手たちは次第に報酬をもらうようになって行った。1892年、エール大出身のウィリアム・ヘッフェルフィンガーが1試合500ドルの報酬で最初のプロ選手となり、1893年には年間契約のプロ選手が誕生している[23]。1895年に16歳のジョン・ブラリアーが1試合10ドルでプロに転向することを初めて公表[24]。1896年にはいくつかの試合をプロだけで構成されたチームで戦うクラブが現れ、1889年、ついにカージナルスがプロチームとして誕生した[23]

20世紀に入ると選手の報酬は急騰し、1915年には第5回夏季オリンピック(1912年、ストックホルム)で2個の金メダルを獲得したジム・ソープが1試合250ドルの報酬を得た[24]。すると、より良い待遇や契約条件を求めて選手がチームを渡り歩くためにチーム力が安定しないという問題が起こり始め、挙句の果てにはチームが大学生をプロ選手としてプレーさせるような事態が続発した[24]

1920年、上記のような問題を管理・統括するために、現在のNFL[注 12]の前身となるAPFA[注 13]が11チームで結成された[24]。加盟費は各チーム100ドルであった。1922年にAPFAはNFLと改名、参加チームは18チームだった。
その他のプロリーグ

NFLの成功を見て、数々のプロリーグが作られてきたが、多くは短命に終わっている。

1982年にNFLのシーズンオフを狙った春季リーグの
USFLが結成されるも、1986年には終了した。その後2022年に復活した後に2024年にXFLと合併してUFLとなった。

1987年には屋内のアリーナフットボールリーグが誕生し、1年の中断を経て2019年に破産。

2001年には春季リーグであるXFLが1年だけ行われ、2020年に再開し、中断をはさんで2024年からUSFLと合併してUFLとなった。

2009年には屋内の女性によるレジェンズ・フットボール・リーグが誕生し、2022年シーズン以降中断している。

2017年には屋内のNational Arena Leagueが誕生し、2024年現在も続行している。

2019年には1年だけ春季リーグであるアライアンス・オブ・アメリカン・フットボールが存在した。

2024年にはUSFLXFLが合併して春季リーグUFLが誕生した。

日本における発展

日本では、岡部平太が1917年留学先のシカゴ大学スタッグ教授よりバスケット・水泳・陸上競技と共にアメリカンフットボールを学んだ。実際に岡部は大学や近くのクラブチームでプレーを経験した[注 14]

岡部は1920年に帰国すると、陸上競技コーチに就任した第一高等学校 (旧制)の「陸上運動部」や、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の学生らにアメリカンフットボールを教えた。3チームが結成され、練習試合も多く行われたらしいが、翌年に岡部が新設の水戸高等学校 (旧制)に赴任したことや、当時は国内にボール製造メーカーが無く、輸入も難しかったこともあり、本格的な継続活動には至らなかった。また、岡部は1925年出版の自著「世界の運動界」の中で、日本で最初と思われるアメリカンフットボール解説を書いている。

1934年になって、立教大学教授ポール・ラッシュと明治大学教授松本瀧藏ら、日本に留学した日系二世が中心となり、立教大学明治大学早稲田大学が参加した「東京学生米式蹴球競技連盟」(のち「東京学生アメリカンフットボール連盟」を経て現在の日本アメリカンフットボール協会)を設立[25]


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