1913年、アメリカ陸軍士官学校対ノートルダム大学戦において、ノートルダム大学のガズ・ドライズ(英語版)とヌート・ロックニー(英語版)がパスプレーを繰り出し、ランプレーと効果的に織り交ぜ、それまでほとんどランプレーだけだったアメリカンフットボールの戦術において革命を起こした。40ヤードのタッチダウンパスを皮切りに、ノートルダム大学が得た5TDはすべてパスプレーによるもので、35-13で圧勝した。パスプレー(1回のみ前方にパスができるルール)自体は1906年から認可されていたが、それまでは限定的にしか使用されていなかった[注 11]。
NFLの歩み最初のプロアメフト選手として知られるウィリアム・ヘッフェルフィンガー(英語版)
競技が普及するにつれて、各地のアスレチック・クラブでプレーする選手たちは次第に報酬をもらうようになって行った。1892年、エール大出身のウィリアム・ヘッフェルフィンガーが1試合500ドルの報酬で最初のプロ選手となり、1893年には年間契約のプロ選手が誕生している[23]。1895年に16歳のジョン・ブラリアーが1試合10ドルでプロに転向することを初めて公表[24]。1896年にはいくつかの試合をプロだけで構成されたチームで戦うクラブが現れ、1889年、ついにカージナルスがプロチームとして誕生した[23]。
20世紀に入ると選手の報酬は急騰し、1915年には第5回夏季オリンピック(1912年、ストックホルム)で2個の金メダルを獲得したジム・ソープが1試合250ドルの報酬を得た[24]。すると、より良い待遇や契約条件を求めて選手がチームを渡り歩くためにチーム力が安定しないという問題が起こり始め、挙句の果てにはチームが大学生をプロ選手としてプレーさせるような事態が続発した[24]。
1920年、上記のような問題を管理・統括するために、現在のNFL[注 12]の前身となるAPFA[注 13]が11チームで結成された[24]。加盟費は各チーム100ドルであった。1922年にAPFAはNFLと改名、参加チームは18チームだった。 NFLの成功を見て、数々のプロリーグが作られてきたが、多くは短命に終わっている。 日本では、岡部平太が1917年留学先のシカゴ大学でスタッグ教授よりバスケット・水泳・陸上競技と共にアメリカンフットボールを学んだ。実際に岡部は大学や近くのクラブチームでプレーを経験した[注 14]。 岡部は1920年に帰国すると、陸上競技コーチに就任した第一高等学校 (旧制)の「陸上運動部」や、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の学生らにアメリカンフットボールを教えた。3チームが結成され、練習試合も多く行われたらしいが、翌年に岡部が新設の水戸高等学校 (旧制)に赴任したことや、当時は国内にボール製造メーカーが無く、輸入も難しかったこともあり、本格的な継続活動には至らなかった。また、岡部は1925年出版の自著「世界の運動界」の中で、日本で最初と思われるアメリカンフットボール解説を書いている。 1934年になって、立教大学教授ポール・ラッシュと明治大学教授松本瀧藏ら、日本に留学した日系二世が中心となり、立教大学・明治大学・早稲田大学が参加した「東京学生米式蹴球競技連盟」(のち「東京学生アメリカンフットボール連盟」を経て現在の日本アメリカンフットボール協会)を設立[25]。
その他のプロリーグ
1982年にNFLのシーズンオフを狙った春季リーグのUSFLが結成されるも、1986年には終了した。その後2022年に復活した後に2024年にXFLと合併してUFLとなった。
1987年には屋内のアリーナフットボールリーグが誕生し、1年の中断を経て2019年に破産。
2001年には春季リーグであるXFLが1年だけ行われ、2020年に再開し、中断をはさんで2024年からUSFLと合併してUFLとなった。
2009年には屋内の女性によるレジェンズ・フットボール・リーグが誕生し、2022年シーズン以降中断している。
2017年には屋内のNational Arena Leagueが誕生し、2024年現在も続行している。
2019年には1年だけ春季リーグであるアライアンス・オブ・アメリカン・フットボールが存在した。
2024年にはUSFLとXFLが合併して春季リーグUFLが誕生した。
日本における発展