アメリカひじき
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ところが、一方においては、なんかもう戦争がいやだというか、一挙手一投足しばられても、あんな一方側にゆだねて、ごたごたいわれるのはいやだという気持ちがかなり強いんですね。 ? 野坂昭如「剣か花か――七〇年乱世・男の生きる道」[3]
あらすじ

日頃不規則な仕事で家族サービスできない俊夫は、その埋め合せにこの春、妻・京子と3歳の息子・啓一にハワイ旅行させた。京子は旅行中、アメリカ人老夫婦と仲良くなり、帰国後も文通やプレゼント交換などをしていたが、そのヒギンズ夫妻が遊びにやって来ることとなった。22年前、戦争で父親が戦死し、病弱な母親と幼い妹を支え、中学修了後から働きはじめた俊夫は、戦後のどさくさの中で、MJB缶やハーシーココア缶、チョコレートチーズ煙草などを持っているアメリカ兵と私娼の間でポン引きのようなこともしたことがあった。その品は三国人の喫茶店で現金と交換できたのだった。俊夫はアメリカ兵にお世辞や冗談を言って媚びていたようなことを、来日するヒギンズの東京案内でまたやらなければならないのかと思い、心が滅入り、敗戦直後の複雑な「日米親善」の思い出を回想する。

1945年(昭和20年)9月25日に初めてアメリカ軍が上陸し、ジープに乗ってきた大男の兵士がチューインガムを道にばら撒き、みんなでに群がるのようにガムを拾った時、俊夫は近くで見たアメリカ兵の体格の逞しさに驚いた。その頃、新在家の焼跡の防空壕舎に母と妹と住んでいた俊夫は、8月15日の玉音放送後、夕暮れの空から落下傘が沢山降ってくるのを見た。それはアメリカ軍が脇浜にいる捕虜用に落とした物資だったが、多量のために日本兵によって各町内に秘密裡に分配されて食料品は貰えることになった。中身は、日用品の他、チョコレート、ガム、固パン、チーズ、豆の缶詰、ジャムベーコンハム砂糖などがびっしり入っていた。町内の人々は溜息でそれを見た。

分配された宝物の中に、掌山盛りほどの黒いちぢれた糸くずのようなものがあったが、俊夫も母も何か見当がつかなかった。近所のおばはんに、「ひじきに似とるわ」と言われ、煮てみると水が赤茶に変った。「アメリカのひじきはアクが強いんやわ」と、俊夫の母は何回も水を替えて岩塩で味つけた。それはものすごい不味かったが、ひもじかったので捨てることもできなかった。3日後、兵隊から聞いてきた町会長が、アメリカひじきが「ブラックテー」(紅茶の葉)だと教えてくれた時には、町内のどの壕舎にも、アメリカひじきは残ってなかった。

そんな複雑なアメリカとの思い出のある俊夫は空港でヒギンズ夫妻を迎えた。絶対に英語で挨拶しないと思っていたが、向うが日本語でにこやかに挨拶すると、固い決心など崩れ去った。終戦後、進駐軍として半年間日本にいたことがあるというヒギンズに、豊かになって変った日本を誇りたいと思った俊夫は、銀座の店やコールガール白黒ショーをサービスするが、ヒギンズは俊夫のどんな気遣いにも、たいした驚きや反応を見せず、悠然とした態度で図々しいそぶりだった。俊夫は次第にヒギンズに、昔の自分と進駐軍を重ね、いろいろと酷いことをされたのに、自分がアメリカ人にサービスしたくなるのは何故だろうかと考えを巡らす。

妻の京子も、せっかく用意したすき焼きの御馳走を、友人のところへ行くというヒギンズ夫妻にすっぽかされ、だんだんとこれまでのヒギンズ夫人への不満が爆発しはじめ、いくらこっちが一生懸命やっても、まるで感じないアメリカ人夫婦が、一体いつまで居るつもりなのかと苛立った。俊夫が、一月くらい居るかもと言うと、「そうしたら、はっきり言うわ、出ていってくれって」と京子は叫んだ。俊夫は、ヒギンズはやがて帰るだろうが、彼が帰っても、アメリカ人は自分の中にどっかと居座り続けるにちがいない、と思った。そして「俺の中の、俺のアメリカ人は折に触れ、俺の鼻面を引きずり回し、ギブミーチューインガム、キュウキュウと悲鳴をあげさせる、これは不治の病のめりけんアレルギーやろ」と考えながら、満腹の腹に松阪牛を押し込んで、あの「アメリカひじき」のごとくやけくそで食べ続けた。
登場人物
俊夫
36歳。
TVCMフィルム制作のプロダクションを主宰。妻と一人息子と四谷に居住。1943年(昭和18年)に中学入学。22年前の敗戦時は14歳で、新在家の焼跡の防空壕舎に妹と母親と居た。1946年(昭和21年)夏の頃には「大阪のはずれ大宮町」に住み、戦死した父親の代りに、病身の母親と、女学校2年の幼い妹を養うために、中学4年修了後は靴下工場や乾電池工場などで働く。その後、中之島の記念写真屋と知り合って英会話を習い、GI(アメリカ兵)と私娼の間でポン引きのまねごとをして稼いだこともあった。『火垂るの墓』の清太に該当。
京子
24?26歳くらい。俊夫の妻。短大で英会話を習った。今春にハワイへ息子と旅行し、アメリカ人老夫婦・ヒギンズ夫妻と知り合い、帰国後も文通する。戦争中は母親の背中におぶさった幼児だった。すいとんを食べた経験がある。
啓一
3歳。俊夫と京子の一人息子。7月生まれ。ヒギンズ夫妻から誕生日プレゼントとしてチョコレートをアメリカから贈られる。近頃、テレビの歌をすぐ覚えて、「困っちゃうな」などと思い入れたっぷりに真似て唄う。
ヒギンズ
62、3歳。イギリス系アメリカ人。国務省を退いて恩給暮し。妻と世界旅行をしている金持ちのいい身分。三人の娘はそれぞれ嫁いでいる。戦時中、ミシガン大学日本語学校にいて、1946年(昭和21年)には進駐軍として約半年間、新聞関係の仕事で来日していた。そのためか日本に知り合いが沢山いて、俊夫宅に滞在中、プレスクラブCBS大使館によく行く。ウィスキーをストレートで、ぐいぐい飲んでも平然とし、二日酔いもしない。女好きで付き合う女の猥褻写真を撮る趣味がある。


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