一方、ハーバード大学はこのグループに参加することを拒否。他の相手を求めてカナダのモントリオールのマギル大学からの挑戦を受け、1874年5月14日、ラグビールールの試合を行った[21][注 6]。そしてその後も2校は、ラグビールールの下で、1874年から1875年にかけてシリーズ戦を行ったラグビータイプのゲームはまもなく他の学校にも流行り始め、その後十年以内にアメリカンフットボール特有のゲーム形式が発展して行った。そして19世紀後半以降、アメリカンフットボールは、大学のスポーツとして人気を博すことになる。
ルールの整備ウォルター・キャンプ(英語版)
現在の形式のアメリカンフットボールは、1874年に行われたハーバード大学とマギル大学の試合に由来する。当初はラグビー校式ルールで行われていたが、ボールの所有権の曖昧さなどから、アメリカ独自のフットボール開発の気運が高まった。
1876年、ラグビー選手として活躍していた、のちに「アメリカンフットボールの父」と呼ばれるイェール大学のウォルター・キャンプ(英語版)の呼びかけによりコネチカット州において会議が開かれ、基礎的なルールが決められた[21]。この時に制定されたルールの内、現存するのは、
フィールドでプレーするのは1チーム11人ずつ。
第4ダウンの攻撃で10ヤード進めなければ攻撃権を失う。
センターからクォーターバックにボールをスナップして攻撃が始まる。
などである。
その後もウォルター・キャンプを中心に、ラグビーでの「スクラム」から「スクリメージ」への革命的な変更(1880年)、ボール所有権の明確化、「ダウン」制の導入(1882年)などのルールの改革が行われ、初期のアメリカンフットボールが形作られた。そして1885年9月3日には最初のプロフェッショナル・フットボールゲームがプレーされた。しかし、1888年にひざ下へのタックルが合法化されたことでフットボールはボールを保持した選手に集団で襲いかかる闘争競技と化し、ついには初のゲーム中の死亡者を出すことになる[21]。
20世紀に入ると、負傷の多さや競技中の死亡など他のスポーツでは考えられない危険性から「殺人ゲーム」と呼ばれるようになり、世間の非難が高まっていった[22]。当時のアメリカでは安全な学生スポーツが求められており、1891年にYMCAで始まったバスケットボールは激しいコンタクトをルールで排除したため女子学生でもプレーできるようになり、1904年のセントルイスオリンピックでデモンストレーション競技となるなど広まりを見せていたが、アメリカンフットボールのルールは改善されず依然として男子大学生の野蛮なスポーツ扱いだった。1905年10月、セオドア・ルーズベルト大統領[注 7]はアメリカンフットボールを問題視し、ホワイトハウスにイェール大、ハーバード大[注 8]、プリンストン大の各責任者を招集して健全化を要求、競技をもっと安全でクリーンなものにするか、さもなければ禁止するよう意見した[22]。事実、コロンビア大学は、もっと安全になるまで事態をうかがうということで10年間活動を中止、ノースウェスタン大学は1年間棄権、スタンフォード大学とカリフォルニア大学はラグビーに転向してしまった[22]。さらにその年の暮れにシカゴ・トリビューンが試合で18人が死亡し、154人以上が重傷を負っていることを報道すると非難はより強くなった[22]。議会では廃止論が叫ばれ、コンタクトが少なく安全なサッカーに転向すべきだという意見が噴出した[22]。1906年1月21日、関係者たちはさっそくルールを改正すべく集まりを持った[22][注 9]。ウォルター・キャンプを中心としたこのルール委員会は、フォワード・パスを認め、ニュートラル・ゾーンを設け、これまで3rdダウンで5ヤードを10ヤードに変更、試合時間も70分から60分に減らした[22]。その後、1912年までの間にさらにルールは変わっていった[22]。フィールド・ゴールによる得点は4点から3点に、タッチダウンは5点から6点に変更、フライング・タックルや不正な手や腕及び体の使用の禁止、スクリメージ・ライン上に7人の選手が位置することの義務付けなどが行われ、これらの改革によって集団で襲いかかるような野蛮な行為は影をひそめ、現在のルールの基本が出来上がった[22]。安全面に配慮したルール改定に加え、負傷軽減のための防具の整備[注 10]も行われた。陸軍士官学校とノートルダム大学の試合(1913年)
1913年、アメリカ陸軍士官学校対ノートルダム大学戦において、ノートルダム大学のガズ・ドライズ(英語版)とヌート・ロックニー(英語版)がパスプレーを繰り出し、ランプレーと効果的に織り交ぜ、それまでほとんどランプレーだけだったアメリカンフットボールの戦術において革命を起こした。40ヤードのタッチダウンパスを皮切りに、ノートルダム大学が得た5TDはすべてパスプレーによるもので、35-13で圧勝した。パスプレー(1回のみ前方にパスができるルール)自体は1906年から認可されていたが、それまでは限定的にしか使用されていなかった[注 11]。
NFLの歩み最初のプロアメフト選手として知られるウィリアム・ヘッフェルフィンガー(英語版)
競技が普及するにつれて、各地のアスレチック・クラブでプレーする選手たちは次第に報酬をもらうようになって行った。1892年、エール大出身のウィリアム・ヘッフェルフィンガーが1試合500ドルの報酬で最初のプロ選手となり、1893年には年間契約のプロ選手が誕生している[23]。1895年に16歳のジョン・ブラリアーが1試合10ドルでプロに転向することを初めて公表[24]。1896年にはいくつかの試合をプロだけで構成されたチームで戦うクラブが現れ、1889年、ついにカージナルスがプロチームとして誕生した[23]。
20世紀に入ると選手の報酬は急騰し、1915年には第5回夏季オリンピック(1912年、ストックホルム)で2個の金メダルを獲得したジム・ソープが1試合250ドルの報酬を得た[24]。すると、より良い待遇や契約条件を求めて選手がチームを渡り歩くためにチーム力が安定しないという問題が起こり始め、挙句の果てにはチームが大学生をプロ選手としてプレーさせるような事態が続発した[24]。
1920年、上記のような問題を管理・統括するために、現在のNFL[注 12]の前身となるAPFA[注 13]が11チームで結成された[24]。加盟費は各チーム100ドルであった。1922年にAPFAはNFLと改名、参加チームは18チームだった。 NFLの成功を見て、数々のプロリーグが作られてきたが、多くは短命に終わっている。 日本では、岡部平太が1917年留学先のシカゴ大学でスタッグ教授よりバスケット・水泳・陸上競技と共にアメリカンフットボールを学んだ。実際に岡部は大学や近くのクラブチームでプレーを経験した[注 14]。
その他のプロリーグ
1982年にNFLのシーズンオフを狙った春季リーグのUSFLが結成されるも、1986年には終了した。その後2022年に復活した後に2024年にXFLと合併してUFLとなった。
1987年には屋内のアリーナフットボールリーグが誕生し、1年の中断を経て2019年に破産。
2001年には春季リーグであるXFLが1年だけ行われ、2020年に再開し、中断をはさんで2024年からUSFLと合併してUFLとなった。
2009年には屋内の女性によるレジェンズ・フットボール・リーグが誕生し、2022年シーズン以降中断している。
2017年には屋内のNational Arena Leagueが誕生し、2024年現在も続行している。
2019年には1年だけ春季リーグであるアライアンス・オブ・アメリカン・フットボールが存在した。
2024年にはUSFLとXFLが合併して春季リーグUFLが誕生した。
日本における発展