アメノヒボコ
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多遅麻毛理  清日子   当摩之灯
    
        
     
  酢鹿之諸男  

多遅摩比多訶   菅竈由良度美
    
  

葛城之高額比売命
息長宿禰王妻)

  

息長帯比売命
(神功皇后)

仲哀天皇皇后)

古事記応神天皇記では、その昔に新羅王子という天之日矛が渡来したとし[注 3]、その渡来の理由を次のように記す。

新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した[6]

天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという[6]大阪府大阪市比売許曾神社に比定)。

天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える(系図参照)。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

珠 2貫

浪振る比礼(なみふるひれ)

浪切る比礼(なみきるひれ)

風振る比礼(かぜふるひれ)

風切る比礼(かぜきるひれ)

奥津鏡(おきつかがみ)

辺津鏡(へつかがみ)

であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという[6]兵庫県豊岡市出石神社祭神に比定)。『古事記』では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記される。
風土記
播磨国風土記伊和大神を祀る伊和神社兵庫県宍粟市

播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。

揖保郡揖保里 粒丘条客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近か[7])の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと)に宿所としての土地を求めると、志挙は海中に宿ることのみを許した。これを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙はその霊力に畏れをなし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されるという(たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山に比定[7][8][2]

宍禾郡比治里 川音村条天日槍命が村に泊まって「川の音がとても高い」と言ったので「川音村(かわとのむら)」と称されるという(宍粟市山崎町川戸付近に比定[7][9][2]

宍禾郡比治里 奪谷条葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合ったので、「奪谷(うばいだに)」と称されるという[9][2]

宍禾郡高家里条天日槍命が「この村の高さは他の村に優っている」と言ったので「高家(たかや)」と称されるという(宍粟市山崎町庄能から山崎付近に比定[7][10][2]

宍禾郡柏野里 伊奈加川条葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという(菅野川に比定[7][10][2]

宍禾郡雲箇里 波加村条伊和大神の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという(宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近に比定[7][11][2]

宍禾郡御方里条葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう(宍粟市一宮町の北半部に比定[7][11][2]

神前郡多駝里 粳岡条伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする(姫路市船津町八幡の糠塚に比定[7][12](別伝は省略)。

神前郡多駝里 八千軍条天日桙命の軍兵が8,000人あったため「八千軍野(やちぐさの)」と称されるという(神崎郡福崎町八千種付近に比定[7][12]

筑前国風土記

『筑前国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)によると、足仲彦天皇(仲哀天皇)による球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)征伐のための筑紫行幸の際、怡土県主(いとのあがたぬし:福岡県糸島市付近の県主)らの祖の五十迹手(いとで)が出迎えた。五十迹手はその言の中で、自分を高麗国(朝鮮の総称か)の意呂山(不詳。一説に蔚山[5])に天降った日桙の後裔としている[13]
その他

アメノヒボコの名はないが関連伝承として、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもとを逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(豊後国ながら大分県姫島[注 4][14])。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する、という[5]


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