16世紀には当時ネーデルラント17州を支配していたスペイン王フェリペ2世やその後継者に対する反乱が起こり、八十年戦争へ発展した。この間、アムステルダムは独立派に組していた。1585年8月に南ネーデルラントのアントウェルペンがスペインのパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降伏すると、アントウェルペンの新教徒商人がアムステルダムへと続々と移住し、アムステルダムはそれまでのバルト海交易のみならず、それまでアントウェルペンが支配していた地中海交易や新大陸、アジアからの交易をも手に入れ、これによってアムステルダムは世界商業・金融の中心地となっていった。独立を獲得したオランダ共和国はその宗教的に寛容であった。スペインやポルトガルからはユダヤ人がレコンキスタから逃れてきたし、アントウェルペンからは豪商が進出してきた。ユダヤ人はこのアムステルダムとアントウェルペンでダイヤモンドの加工を営んだ。フランスからはユグノーが安住の地を求めてやって来た。フランドルからの豊かで洗練された移住者はオランダ語の基礎を作り、オランダの商業的発展の礎を築いた。1609年にヴェネツィア流のアムステルダム銀行ができた。 17世紀はアムステルダムの黄金の時代と考えられている。17世紀初頭、アムステルダムは世界で最も裕福な都市であった。アムステルダムの港は浅かったものの広く、交易の結節点ならびに商業の中心地としての魅力はその欠点を補って余りあった[7]。1595年、アムステルダムの商人はコルネリス・ハウトマンの船団をアジアへと派遣し、船団はジャワ島から東方の物産を積んで帰国した。これによって東方貿易ブームが起きるが、あまりにも過当競争となったために、1602年に東方貿易の独占権を持ったオランダ東インド会社が設立された[8]。アムステルダムの港を発する商船は、北アメリカ大陸やアフリカ大陸を始め、現在のインドネシアやブラジルまで含めた広大なネットワークを築いていた。アムステルダムの貿易商はオランダ東インド会社(VOC)やオランダ西インド会社(WIC)の主要な地位を占めていた。これらの特許会社は後世のオランダ植民地を形成する海外権益の基礎となった。具体的には中南米のプランテーションで生産された砂糖が送られてきた。 アムステルダムは欧州で最も重要な交易市場であったが、世界を牽引する金融中心地でもあった。アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所であった。チューリップ・バブルでは先物取引などが行われていた。ヘーレン運河、プリンセン運河、ケイザー運河といった運河が同心円状に建設され、アムステルダムの運河網が形を整えていったのもこの時代である。 オランダはこの時代世界でもっとも出版の自由や言論の自由、思想の自由が保障されている国であり、宗教的にも寛容であったため、ヨーロッパ各国から文化人が亡命し、オランダ、特に最大都市であるアムステルダムに居を構えた。アムステルダムにはこの当時400軒の出版業者が軒を連ね、ルネ・デカルトなどもアムステルダムに落ち着いている[9]。
黄金時代