17号は、アメリカの有人宇宙船としては初めて夜間に発射された。またサターン5型ロケットを有人飛行に使用するのは、これが最後のこととなった。この飛行はアポロ計画の中ではJ計画に分類されるものであり、3日間の月面滞在の間に月面車を使用して広範な科学的探査を行った。サーナンとシュミットはタウルス・リットロウ (Taurus?Littrow) 渓谷で3度の船外活動を行い、サンプルを採集してアポロ月面実験装置群 (Apollo Lunar Surface Experiments Package, ALSEP) を設置した。一方この間エヴァンスは司令・機械船に乗り、月周回軌道にとどまった。3人の飛行士は12月19日、約12日間の飛行を終えて地球に帰還した[2]。
タウルス・リットロウ渓谷への着陸は、17号の本来の目的を念頭に置いて決定された。その目的とは即ち、(1) 雨の海を形成した巨大隕石の衝突よりも古い月の高地の資料を採集すること。(2) 比較的新しい火山活動が周辺であった可能性について調査すること、であった。谷の北部と南部にある岸壁では高地のサンプルを採集できることが期待され、また谷の周辺にある暗い物質に囲まれたいくつかのクレーターでは火山活動の痕跡を発見できる可能性があったため、この地が着陸地点に選ばれた[4]。
17号はまた、(1) 最も長く宇宙に滞在し (当時)、(2) 最も長く月面活動を行い、(3) 最も大量に月面からサンプルを持ち帰り、(4) 最も長く月周回軌道に滞在した、などのいくつかの記録を打ち立てた[5][6]。 地位
搭乗員
船長ユージン・サーナン
3回目の宇宙飛行
司令船操縦士ロナルド・エヴァンス
1回目の宇宙飛行
月着陸船操縦士ハリソン・シュミット
1回目の宇宙飛行
17号の搭乗員には、本来はサーナン、エバンスおよびジョー・エングル(Joe Engle) が指名されるはずであった。この3名は、アポロ14号で予備搭乗員を務めていた[8]。エングルは極超音速実験機X-15のパイロットとして16回飛行し、最高時速7,272キロメートル、最高到達高度85.5キロメートル の記録を打ち立てたことのある人物だった[9]。一方でシュミットは、アポロ15号の予備搭乗員を務めていた。アポロ計画の飛行士のローテーションでは、予備搭乗員はその3つあとの飛行で本搭乗員を務めるという規定があり、これに従えばシュミットはアポロ18号で月着陸船操縦士を務めることになっていたのだが、18号(さらに19号、20号)は1970年9月に中止が決定された。この決定を受け、科学者らの協会は17号では宇宙飛行士に訓練で地質学を学ばせるのではなく、地質学者そのものを月面に赴かせるようNASAに圧力をかけた。この科学者からの要望を考慮して、地質学の専門学者であるシュミットが着陸船操縦士に指名された[8]。
この変更を受け、17号の残りの搭乗員には誰を指名するかという問題が発生した。15号の予備搭乗員であったリチャード・ゴードン (Richard F. Gordon, Jr.)、ヴァンス・ブランド (Vance D. Brand) をシュミットとともにスライドさせるのか、もしくは14号のサーナンとエヴァンスをそのまま搭乗させるのかという選択に迫られたが、NASAの飛行人事部長だったドナルド・スレイトン (Deke Slayton) は最終的にサーナンとエヴァンスを指名した[8]。 地位 地位
予備搭乗員
当初
船長デイヴィッド・スコット (David Scott)
司令船操縦士アルフレッド・ウォーデン (Alfred Worden)
月着陸船操縦士ジェームズ・アーウィン (James Irwin)
彼らはアポロ15号の本搭乗員だった
変更後
船長ジョン・ヤング (John Young)