新疆ウイグル自治区の回族の間では、清代以降は清真寺(モスク)やゴンベイ
(聖廟)で宗教教育を修め、審査に合格した人物に対して用いられている[5]。1980年代以降の中国では既存のアホンやアホンの志望者に対して中国イスラム協会が実施する試験が課され、合格者には公的な証明書が交付される[5]。通常は「開学アホン」とも呼ばれる清真寺の教長に対して使われるが、教長職に就いていなくとも証明書を交付された人物に対しても使われるため、役職というよりも資格に近い[1]。開学アホンの下に職務を補佐する治学アホンが置かれることがあるが、治学アホンは清真寺で正式な宗教教育を受けていないことが多い[5]。アホンに教えを請うために彼の元を訪れた学生や、アホンに従って旅をする弟子はハリーファ(アラビア語で「代理人」の意)やマンラー(アラビア語で「師」を意味するマウラーが転訛した語)と呼ばれ、アホンとともに清真寺で生活し、師の職務を補佐した[2]。
清真寺を中心に形成されるイスラム教徒のコミュニティでは通常長老達がアホンを選ぶための協議を行い、学識のある人物が招致される[2]。門宦(神秘主義教団)の影響下に置かれているコミュニティの場合は、教団の指導者が派遣されるアホンを選んだ。アホンの任期は3年であるが、再選されることもある[2][6]。再選されなかったアホンは他のコミュニティに移動、もしくは教長を辞任する[6]。
コミュニティに派遣されたアホンは清真寺に居住し、経堂教育(清真寺での宗教教育)、宗教儀式、冠婚葬祭、イスラーム法(シャリーア)による行為の判断、雨乞いなどを司る[2]。アホンの給与や経堂教育の運営費は当初有志のアホンが負担していたが、やがてコミュニティの人間が共同して負担するようになった[2]。 中国におけるイスラームの宗教教育は経堂教育と呼ばれ、アホンの思想は経堂教育の創始者とされている胡登洲
中国でのアホンの歴史
清による新疆征服後、現地のアホンが政治に関与することは禁じられ、現地民の統治はベグと呼ばれる有力者に委ねられた[10]。新疆の清真寺に派遣されたアホンは教育に携わるだけに留まらず、コミュニティ内で強い権限を持ち、回民蜂起では反乱を起こしたコミュニティの指導者となるアホンもいた[11]。
中華人民共和国建国後、1958年に宗教制度民主改革が施行されると宗教指導者の特権待遇、イスラーム法に基づく裁判制度は廃止され、清真寺からアホンと彼に従う学生が追放された。文化大革命期の宗教指導者と一般信徒への弾圧を経て、1978年の改革開放政策の実施によって宗教弾圧は終息した[12]。
脚注^ a b 澤井「アホン」『岩波イスラーム辞典』、63頁
^ a b c d e f g 中西「経堂教育」『中国のムスリムを知るための60章』、157-161頁
^ a b 濱田「アホン」『新イスラム事典』、65頁
^ 榎「アホン」『アジア歴史事典』1巻、80頁
^ a b c d 新免「アホン」『中央ユーラシアを知る事典』、31-32頁