アブー・ライハーン・ビールーニー
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ビールーニーによって描かれた月の満ち欠け(月相)における大地から見た太陽光によって生じる光っている部分と影の部分との対応関係を示した図。右のやや大きめの円が太陽。左の大円の周囲に配された小円は地球を公転するのそれぞれ位置を示し、赤い直線が陽光などの光線を表す。『占星術教程の書』(ペルシア語版)より

アブー・ライハーン・ムハンマド・イブン・アフマド・アル=ビールーニー・アル=フワーリズミー(Ab? Ray??n Mu?ammad ibn A?mad al-B?r?n? al-Khw?rizm?, 973年9月4日/9月5日 - 1048年12月13日)は、10世紀ホラズム出身の学者[1]。数学、天文、地理、歴史にわたって100篇を超える著書があったと見られる[1]。現伝するのはそのうち30篇弱[1]。代表的な著書としては、歴史書『過去の足跡』、地理書『インド誌』、精密科学[注釈 1]書『占星術要約』、百科全書『マスウード宝典』があり[1]20世紀前半のアラビア科学研究における権威ジョージ・サートン(英語版)は[2]11世紀前半を「ビールーニーの時代」と呼んだ[1]
生涯

アル=ガダンファル(英語版)によると、ビールーニーはヒジュラ暦362年巡礼月の3日(西暦973年9月4日)に、ホラズムの首府カースの「ビールーン」で生まれたという[3]。ここで言う「ホラズム」は4世紀からホラーサーン地方に存在した王朝、アフリーグ朝(英語版)を指し[4]、「ビールーン」(b?r?n)とは(アラビア語ではなく)ペルシア語で「郊外」を意味する普通名詞である[3]。なお、カース(K?t or K?th)は、20世紀ソ連の考古学的調査により、現在のウズベキスタン領内から城址が発掘され、近くにある街の名前が本項のビールーニーに敬意を示してベールーニー(英語版)に改称された[4]

アブー・ナスル・マンスールの下で数学を学び、イラン中央アジアの各地を遊歴した。イブン・スィーナー(アウィケンナ)とも交流を持った。サーマーン朝の君主マンスール2世やホラズム・シャーのマアムーンなどに仕えたが、ガズナ朝マー・ワラー・アンナフルを征服するとこれに仕えるようになった。1000年頃、後にゾロアスター教の重要な資料となる『古代諸民族年代記』を執筆した。

1017年から1030年にかけて、ガズナ朝のスルターンマフムードに仕えた。マフムードの十数回に及ぶインド遠征にたびたび随行し、インドの民俗、歴史、法律および言語をまとめた『インド誌』を1030年に完成させた。同年、天文学書『マスウード宝典』をまとめあげた。この本の中で、アーリヤバタの地球自転説を紹介したが、採用はしていない。また、地球の半径を約6,339.6kmと計算している。現在の観測による数値(赤道面での半径)は6,378kmであり、極めて正確であったといえる。ちなみに『シャー・ナーメ』の著者フェルドウスィーとも同時代人である。

他に薬学全集『サイダナの書』(『薬学の書』)、鉱物事典『宝石の書』を執筆した。著書の数は120を超える。著書は主にアラビア語で執筆されている。『ヨーガ・スートラ』のアラビア語訳などインド関連の著作物が20編ほどあり、プトレマイオスの『アルマゲスト』をサンスクリットに翻訳することを試みたが、この翻訳が成功したことを示す証拠は今のところ見つかっていない。ユネスコから世界の記憶(世界記憶遺産)登録を受けた[5]
イブン・スィーナーとの論争

同時代の医学者・哲学者のイブン・スィーナーの著作『問いと答え』(al-A`sila wa-l-agwiba) には、両者の間で交わされた書簡による論争が残されている[6]。論争が行われたのはビールーニーが故郷のアラル海南方、フラーワズムのカースに戻った997年の後とされ、もしそうであれば、当時、ビールーニーはほぼ25歳、イブン・スィーナーは18差ごろである。論争が始まった経緯は不明。話題は自然学の様々なトピックにおよぶ。ビールーニーの問いにイブン・スィーナーが答え、さらにビールーニーが反問と答えが繰り返される形式である。前半の1?10の問いはアリストテレス『天体論』についてであると明記されている。後半の8つの問いは改めて第1?第8問と番号がふられ、主にビールーニーの観察に基づく。ビールーニーの疑問は以下のようなものである。

アリストテレス『天体論』についての疑問


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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