アブー・ハニーファの墓の周りには、ブワイフ朝の頃、1066年に巡礼に訪れる者たちのためにクッバ (ドーム)(ドイツ語版)が建てられて墓廟建築化した(アブー・ハニーファ・モスク(英語版))[17]。当該墓廟は、1508年にサファヴィー朝のシャー、イスマーイールにより、一度破壊され[18]、そのほかにもアブドゥルカーディル・ジーラーニー(英語版)の墓など、スンナ派の信仰を集めていた聖者廟や学者廟も同時に荒らされた。その25年後、オスマン帝国軍がバグダードを征服すると、スレイマン大帝はこれらを再建した[19]。21世紀現在のアブー・ハニーファの墓はアブー・ハニーファ・モスク(英語版)という宗教複合の中心をなしている。
思想アブー・ハニーファの墓
アブー・ハニーファは自ら著作を書いていない[12]。アブー・ハニーファの発言の記録としては、次のものがある。
Fiqh al-Akbar
Fiqh al-Abasat
Kitaab-ul-Aathaar シャイバーニーとアブー・ユースフによって伝えられたアブー・ハニーファの言行、7万あまりを収録した言行録。
Aalim wa'l-muta‘allim
At Tareeq Al Aslam Musnad Imam ul A’zam Abu Hanifah
Kitaabul Rad alal Qaadiriyah
『至高の法学』(Al-Fiqh Al-Akbar)という書の著者は、アブー・ハニーファに帰せられているが、A.J. Wensick[20]、Zubair Ali Zai [21]が疑問を呈している。
アブー・ハニーファのイスラーム法学基礎論(ウスール・フィクフ)において、法発見の根拠とされるものを、重視されるものから順に並べると、次のようになる。
クルアーン - 啓示
ハディース - 預言者の言行
イジュマー - 信者共同体の合意
キヤース - 推論
イスティフサーン(英語版) - 法学者個人の見解
ウルフ (イスラーム用語)(英語版) - 慣習慣行、地方社会において掟と呼ばれているもの
当時の法学者の大多数はキヤースの発展とその適用範囲の拡大を認めていたが、これを法理論上の道具として確立したのはハナフィー法学派の知的営為がもたらした結果である。アブー・ハニーファ以前の学者もキヤースを用いていた可能性は高いが、公式にイスラーム法に組み入れたのはアブー・ハニーファが初めてとされる[22]。
後世に与えた影響ハナフィー法学派が住民の最大多数を占める地域が青緑色で示されている。トルコ、中東の北部、エジプトの大部分、中央アジア、インド亜大陸のほとんどがハナフィー派を奉じるムスリムの多い地域である。詳細は「ハナフィー法学派」を参照
8世紀前半のイスラーム教の信徒集団(イスラームのウンマ)からは、ハワーリジュ派やシーア派といった少数派が分離していった。少数派は独自の教理や規範を確立し、ウンマの多数派を批判した。アブー・ハニーファ、アブー・ユースフ、シャイバーニーといった学者は、これらの批判に反論するかたちで、少数派と比較して遅れていた多数派の教理や規範を整備していった当時の多数派のウラマーのひとりである。
教理や規範を整備し確立した多数派は「スンナ派」と呼ばれるようになる。また、スンナ派の宗教的規範は狭義のフィクフ(イスラーム法学)として学問分野化する[12]。アブー・ハニーファから始まるスンナ派の法学には、その後、マーリク、シャーフィイー、イブン・ハンバルといった改革者が現れる。彼らの説を奉じる者たちはそれぞれ分派を形成し、残った法学派を「ハナフィー法学派」とみなし、互いに存在を認め合ってスンナ派四大法学派が成立する。
アブー・ハニーファが整理した正統派教理(アキーダ)はアブー・ムカーティル・サマルカンディーやアブー・ムティー・バルヒーのような中央アジア出身者に伝えられ、のちに中央アジアでマートゥリーディー派の神学に影響を与えた[12]。
データの取り方にも色々あるが、ある統計によれば、伝統的なイスラーム教徒の45%(全ムスリムの41%)がハナフィー派に属すとされる[23]。 アブー・ハニーファは、イスラーム文明で非常に偉大な法学者の1人であり、全人類を視野に入れた場合でも、最大の法思想家に数えられることもある人物である[17]。法学、法思想論以外にも影響を与えており、特にイスラーム神学への影響は甚大である[24]。その生涯を通して、最高の規範となる法学者であると人々に認知されてきた[25]。学派外の者たちにも、すばらしい業績を残し、驚くべき禁欲さで謙虚な人柄であったと考えられている[26]。 アブー・ハニーファが批判されることもある[7]。ザーヒリー派
賛否両論