フランスで時計の開発を行い、永久カレンダー、暗闇でも音で時を知らせるミニッツリピーター、重力の影響によりゼンマイ時計が狂うのを防ぐトゥールビヨン機構など、様々な革新的技術を生み出した。その他にも、「パラシュート」と呼ばれる耐衝撃装置、ブレゲヒゲと呼ばれる独特のカーブを持ったヒゲゼンマイなどにより時計の信頼性向上を図るなどの地味な発明や、ブレゲ数字(独特のインデックスの書体)、ブレゲ針(穴空き針)、ギョーシェ(文字盤の細やかなピラミッド状の装飾)といった高級時計に現在も用いられる意匠の考案にまで、彼の業績は及んでいる。一点ものではあったが、ブレスレット型の腕時計を制作したことでも知られる[1]。
彼の創設した時計メーカー・ブレゲはパテック・フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲ、ランゲ・アンド・ゾーネとともに世界5大時計と呼ばれることもある。 1783年、ブレゲの顧客の一人であったフランス王妃マリー・アントワネットはブレゲに最高の時計を作るように命じた(一説には、彼女の愛人であったハンス・アクセル・フォン・フェルセンの発注であるとも言われる[4])。フランス革命によってマリー・アントワネットは処刑されたが、その後もこの時計の開発は続けられた。ブレゲの死後も弟子達がその仕事を受け継ぎ、1827年になってようやくこの時計は完成した。 こうして完成したのがブレゲNo.160「マリー・アントワネット」(Marie Antoinette )と呼ばれる金色の懐中時計である。この時計には琺瑯文字盤とクリスタル製の透明な文字盤が交換のために用意されており、透明な場合は内部機構を楽しめるようになっている。その内部機構には依頼当時開発されていなかったトゥールビヨンを除くブレゲの開発した最新技術(自動巻き、永久カレンダー、リピーターなど)が採用されている。1983年にイスラエル・エルサレムのL・A・メイヤー記念イスラム美術館
略歴ペール・ラシェーズ墓地にあるブレゲの銅像
15歳でスイスからフランスに渡り、パリやヴェルサイユで時計職人の研鑽を積んでいた。
1775年 - 現在のパリ1区にあたるシテ島ロルロージュ河岸 (時計河岸, Quai de l'Horloge) 39番地に自身の時計工房(メゾンあるいはアトリエ)を開店したのが、現在のブレゲブランドの始まりになる。
彼の時計はナポレオン・ボナパルトやマリー・アントワネットなどの歴史的有名人が使用した。
1812年 - ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラのために、金髪と金で編んだベルトで腕に装着できる、卵型の温度計付きの時計No.2639を製作(現在は行方不明となっている)。
1815年 - フランス海軍御用達の時計師となる。
1823年 - パリでその生涯を閉じ、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
マリー・アントワネット
2008年のバーゼル・フェアで、ブレゲ本人や美術館が保管していたデッサンと、実際の写真などの技術的な情報を元に作られたレプリカNo.1160が出展され、前年に発見されたNo.160とともに展示された。出展されたレプリカは一点のみで、ブレゲ社からは現在のところ他のレプリカを作る予定も、販売する予定もない旨が発表されている。なおNo.1160の木製化粧箱は小トリアノン宮殿に生えていたマリー・アントワネットお気に入りのオークが使われており、彼女の部屋の床模様を模している。ブレゲ社は木の提供を受けて、小トリアノン宮殿と王妃の農村の修復事業に出資している。
製造した時計
1795年頃に製作した置時計(チューリッヒ・バイヤー時計博物館所蔵)
懐中時計 No.92(1785年制作、パリ工芸博物館所蔵)
脚注^ ノート:アブラアム=ルイ・ブレゲ参照。