アブドル・ハク
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1977年にグルブッディーン・ヘクマティヤール率いるイスラム党(ヘクマティヤール派)の一員として、当時の共産主義政権に対する武力闘争に身を投じた[7]。後にムハンマド・ユーヌス・ハーリスのイスラム党 (ハーリス派) に転じた。ソ連・アフガン戦争では、カーブル地域のムジャーヒディーンを束ねた[4]。一連の戦闘での活躍によって、指揮官としての名声が高まり、アフガニスタン全土でも指導的な立場を得るに至った。ガーディアンによると、戦場で12回負傷し片足を失った。そのため戦場ではいつも馬の背にあったと言う[7]。また、戦傷治療のために日本を訪れたことがある[8]
戦後の活動

1998年、国際連合の和平調停者に就任した[7]

2001年10月、ターリバーンに対抗するパシュトゥーン人勢力を復活させるために、アメリカの援助の下、数百人の支持者と共にローガル州に潜入した。潜入2日後、2001年10月26日逮捕、処刑された[4]ガーディアンによると、ハクが捕らえられたのは二重スパイによる裏切りのためだと言う[7]。ハクの能力を過信したISIに任せきりで、ハクをサポートする手を何も打たなかった、とCIAを非難する報道が彼の死の直後に相次いだ[9]ガーディアンは追悼記事で「有能な指揮官」「汎民族的ロヤ・ジルガを主導する能力がある数少ない指導者の一人だった」と彼を偲んだ[7]
ノート^ Kaplan, 145-6
^ Kaplan, 147
^ Kaplan, 67
^ a b c Khan, M. Ismail. " ⇒Taliban execute ex-guerilla commander: Last moment rescue operation fails", Dawn, October 27, 2001. Retrieved September 25, 2006.
^ 山根聡「アフガニスタンの軍閥と中央政権」 鈴木均編『アフガニスタン国家再建への展望』明石書店、2007年
^ “ ⇒参考資料 アフガニスタン2001年”. アジア経済研究所. 2012年11月23日閲覧。
^ a b c d eAbdul Haq: Veteran Afghan leader seeking post-Taliban consensus rule, The Guardian, 2001年10月29日
^ 山根聡「アフガニスタンにおける軍閥と中央政権」『アフガニスタン国家再建への展望』鈴木均編、明石書店、2007年、236頁
^ Slavin, Barbara and Weisman, Jonathan. " ⇒Taliban foe's death sparks criticism of U.S. goals", USA Today, October 31, 2001. Retrieved September 23, 2006.

参考文献

Kaplan, Robert D. Soldiers of God: With the Mujahidin in Afghanistan. Boston: Houghton Mifflin Company, 1990.
ISBN 0-395-52132-7

External links

Abdul Haq Foundation

Afghan Warrior: The Life and Death of Abdul Haq, BBC Four

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