アブドルカリーム・カーシム
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これには1956年からイラク共産党やカーシムの属する国民民主党と国民連合戦線(アラビア語: ??? ????????? ???????)[1]と呼ばれる共同戦線を組んできたバアス党も反発し[2]、バアス党地域指導部書記長のフアード・リカービーは閣僚を辞任してバアス党員サッダーム・フセインらと暗殺未遂事件を起こしてシリアなどの外国に逃れた[3]

その後カーシムは、政権の支持基盤を共産党に求め、農地改革をはじめとして経済政策に共産党路線が強く反映された。このような容共的な態度に対し、政権に参加する民族主義勢力や軍部の反発を招いた。

カーシムに反発する軍の一部はモースルクーデターを起こしたものの、すぐに鎮圧された。その後、クーデター同調者は一部の武装共産党員によって惨殺された(モースル蜂起(英語版))。モースル蜂起の後、共産党は政権に参加し、3名入閣させるに至った。
失脚・バアスの政権掌握殺害されたカーシム

外交的にもイラク石油会社利権区域の90%の国有化措置やOPEC設立会合をバグダッドで開くなど先鋭的な路線を打ち出し、1961年に独立したばかりのクウェートに対する領有権主張は同年7月のイギリス軍の再駐留と同年8月のサウジアラビアヨルダンスーダンエジプトからなるアラブ連盟平和維持部隊の展開を引き起こした。このことは西側諸国のみならず、イラクの台頭を快く思わないアラブ諸国とも対立を深めた。ついに1963年2月8日、アフマド・ハサン・アル=バクル准将率いるバアス党将校とナセリストがクーデターにより政権を掌握した(ラマダーン革命)。カーシムは2日間に亘り抵抗したものの、翌9日に降伏し、即決裁判により処刑された。
参照^ Ghareeb, Edmund A.; Dougherty, Beth K. Historical Dictionary of Iraq. Lanham, Maryland and Oxford: The Scarecrow Press, Ltd., 2004. Pp. 104.
^ Coughlin 2005 , pp. 24?25.
^ Farouk-Sluglett & Sluglett 2001 , pp. 59?73

公職
先代
アフマド・ムフタール・ベバン イラク共和国首相
1958-1963次代
アフマド・ハサン・アル=バクル

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