その後カーシムは、政権の支持基盤を共産党に求め、農地改革をはじめとして経済政策に共産党路線が強く反映された。このような容共的な態度に対し、政権に参加する民族主義勢力や軍部の反発を招いた。
カーシムに反発する軍の一部はモースルでクーデターを起こしたものの、すぐに鎮圧された。その後、クーデター同調者は一部の武装共産党員によって惨殺された(モースル蜂起(英語版))。モースル蜂起の後、共産党は政権に参加し、3名入閣させるに至った。
失脚・バアスの政権掌握殺害されたカーシム
外交的にもイラク石油会社利権区域の90%の国有化措置やOPEC設立会合をバグダッドで開くなど先鋭的な路線を打ち出し、1961年に独立したばかりのクウェートに対する領有権主張は同年7月のイギリス軍の再駐留と同年8月のサウジアラビア、ヨルダン、スーダン、エジプトからなるアラブ連盟平和維持部隊の展開を引き起こした。このことは西側諸国のみならず、イラクの台頭を快く思わないアラブ諸国とも対立を深めた。ついに1963年2月8日、アフマド・ハサン・アル=バクル准将率いるバアス党将校とナセリストがクーデターにより政権を掌握した(ラマダーン革命)。カーシムは2日間に亘り抵抗したものの、翌9日に降伏し、即決裁判により処刑された。
参照^ Ghareeb, Edmund A.; Dougherty, Beth K. Historical Dictionary of Iraq. Lanham, Maryland and Oxford: The Scarecrow Press, Ltd., 2004. Pp. 104.
^ Coughlin 2005 , pp. 24?25.
^ Farouk-Sluglett & Sluglett 2001 , pp. 59?73
公職
先代
アフマド・ムフタール・ベバン イラク共和国首相
1958-1963次代
アフマド・ハサン・アル=バクル
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